解説宇喜多秀家(うきたひでいえ)

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戦国武将:宇喜多秀家(うきたひでいえ)宇喜多秀家 元亀3年-明暦元年(1572-1655):岡山県

宇喜多秀家(うきたひでいえ)は、備前国(現岡山県東南部)の戦国武将で岡山城主(現岡山県岡山市)。宇喜多氏は、古代より備前国に土着していた在地領主である。

秀家は、宇喜多直家の次男として誕生したが、11歳のとき、父直家の死により、織田信長に本領を安堵され家督を継いだ。宇喜多軍は、当時中国征討に進撃していた豊臣秀吉軍に組み込まれたが、幼い秀家に代わり、叔父忠家が軍を率いていた。本能寺の変が起こり、秀吉が急ぎ帰京するために毛利元就と和睦を結んだため、宇喜多氏は備中東部・備前・美作(現岡山県のほぼ東半分)を領する大名となった。

秀吉に愛されて猶子となり、元服の際には「秀」の字を与えられて秀家と名乗った。また、15歳のときに、秀吉の鍾愛の養女豪姫(前田利家四女)を正室に迎え、秀吉の一門衆として遇されることになった。

秀吉の死後、秀家にとっては舅でもある前田利家も没すると、石田三成は毛利輝元を盟主に担ぎ出して、関ヶ原の戦いを起こした。秀家は西軍の副大将として、徳川家康を討つべしとの檄文を飛ばし、伏見城攻撃では総大将となるなど、西軍の主戦力となった。しかし、小早川秀秋の裏切りで西軍は総崩れとなってしまい、宇喜多軍も壊滅的な打撃を受けた。小早川軍の裏切りを聞いた秀家は、「小早川軍の陣中に乗り込んで秀秋を叩き切ってやる」と激昂したと言われるが、義弟の明石全登に諌められた。29歳のときである。

秀家は改易された後も逃走を続け、薩摩国(現鹿児島県)の島津氏を頼った。しかし、秀家を匿っているとの噂を恐れた島津氏は、秀家を家康の元へ送った。その後、豪姫の兄で、加賀藩主であった前田利長の助命嘆願などもあり、死罪を免ぜられ、駿河国久能山(現静岡県静岡市)に幽閉された後、35歳のときに、2人の息子とともに八丈島へ流刑された。八丈島で49年を過ごし、83歳の長命を保ち死去した。

妻の豪姫は関ヶ原の後、2人の娘を連れて実家である前田氏に身を寄せ、八丈島にいる夫秀秋と2人の息子である秀高・秀継のもとへ援助を続けた。宇喜多氏は、八丈島で2人の息子たちの血脈を伝えた。


■宇喜多秀家(うきたひでいえ)ゆかりの地

墓所 ・稲葉墓地-八丈島:東京都八丈町
・東光寺-東京都板橋区
肖像画 ・岡山城址-岡山県岡山市
石像 ・(妻豪姫と並ぶ)
八丈島-東京都八丈町

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