解説上杉謙信(うえすぎけんしん)

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戦国武将:上杉謙信(うえすぎけんしん)上杉謙信 享禄3年-天正6年(1530-1578):新潟県

上杉謙信(うえすぎけんしん)は、越後国(現新潟県)を治めた戦国大名。越後守護代長尾氏出身。本名は景虎(かげとら)→政虎(まさとら)→輝虎(てるとら)。謙信は出家後の法号である。俗に「越後の虎」、「越後の龍」と尊崇を込めて称される。

謙信が生まれた頃の越後地方は、氏族内闘争や下剋上が横行し、混乱していた。父為景の隠居を受けて家督を継いだ兄晴景のもとで元服をした謙信は、14歳にして一城を任され、内乱を制圧していった。

病弱であり、争いに対して穏健な態度で臨む晴景ではなく、若いながら武将として才を見せる謙信を当主としようとする動きが活発になり、謙信は19歳で家督を継ぎ、越後守護代となった。さらに越後国内の不満分子を一掃し、22歳にして越後一国の統一を成し遂げた。

越後を安定させた謙信は、武田信玄(晴信)の信濃侵攻で窮地に立った武将たちの要請を受けて、信玄との戦いに赴く。計5回に及ぶ川中島の戦いである。
その間、長尾氏の主筋にあたる上杉氏の家督相続と関東管領職に就任し、名前を上杉政虎と改めた。謙信、32歳のときである。なお、長尾氏の方は、家督を譲渡せず断絶した。

49歳で死去するまで、謙信は戦いの日を過ごした。その旗印に「毘」の字を使うなど、武神毘沙門天を篤く信仰し、生涯不犯の戒(妻帯禁制)を守ったため、婚姻・実子の存在は知られていない。若いときの悲恋が原因だとか、男色家であったとか、果ては謙信女性説も根強いが、真相は不明である。遺品などから身長は156cmほどであったと思われ、当時の男子の平均身長である159cmよりも小柄であったようである。

謙信に対する評価は当時から高く、特に野戦においては統率力に長けた戦術家とみなされており、対戦相手は野戦を恐れ、時に不利となるにも関わらず篭城策を取ったという。

謙信の養子となった甥(姉の息子)にあたる上杉景勝が家督を相続した。その子孫は出羽米沢藩主(現山形県)として、明治にいたり伯爵に列せられた。


■上杉謙信(うえすぎけんしん)ゆかりの地

墓所 ・林泉寺-新潟県上越市
・上杉家廟所謙信霊廟-山形県米沢市
・高野山清浄心院-和歌山県伊都郡高野町
肖像画 ・林泉寺宝物館蔵-新潟県上越市
・上杉神社蔵-山形県米沢市
銅像 ・春日山城址-新潟県上越市
・米沢城址-山形県米沢市
・(馬上で武田信玄に迫る姿)川中島古戦場跡(八幡原史跡公園)-長野県長野市
・栃尾城址-新潟県栃尾市
※他多数あり
神社 上杉神社(祭神名:上杉謙信公)-山形県米沢市

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