解説上杉景勝(うえすぎかげかつ)

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戦国武将:上杉景勝(うえすぎかげかつ)上杉景勝 弘治元年-元和9年(1556-1623):山形県

上杉景勝(うえすぎかげかつ)は、出羽米沢藩初代藩主。長尾氏の出身。母は上杉謙信の姉で、景勝は、謙信の甥にあたる。

8歳のときから、実子の無かった謙信の養子となったが、一方で謙信は北条氏から人質として迎えた景虎を景勝の姉と婚姻させ、養子とした。景勝15歳、景虎17歳のことである。2人の養子を擁する謙信の思惑には諸説あるが、景勝は、20歳のときに、謙信から弾正少弼の位を譲られ、謙信の後継者として、景虎よりも一歩先んじていたともいえる。

後継者を明言せずに謙信が急死したため、景勝は景虎と家督争いをすることになる(御館の乱)。武田勝頼を味方につけた景勝は、景虎一族を自害に追い込み、あわせてお家騒動で表面化した不満分子を一掃し、25歳にして、晴れて上杉家の当主となった。

武田氏の滅亡に続いて、織田信長の越中侵攻を受け、上杉氏は滅亡の危機に陥るが、信長の死により、窮地を脱することができた。しかし、織田軍の侵攻と、御館の乱により、国内は疲弊し、謙信の築いた上杉氏の力は大きく衰えてしまった。

豊臣秀吉政権時代には、秀吉と好を通じ、その信頼を得、越後佐渡の金銀山の支配を任せられ、また五大老のひとりとなり、会津120万石へ増転封された。

秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは、旧交のあった石田光成率いる西軍につき、勝者である徳川家康よりその咎を受け、出羽米沢30万石へ減転封させられた。

石高が4分の1に減ったにもかかわらず、景勝は家臣をひとりも召し放ち(解雇)しなかったという。これが米沢藩財政逼迫の原因でもあるが、藩の経営に熱心に取り組んだという。享年69歳。

その後、上杉氏は、減封されつつも幕末まで米沢藩を治め、明治にいたり、伯爵に列せられた。


■上杉景勝(うえすぎかげかつ)ゆかりの地

墓所 ・上杉家廟所景勝廟-山形県米沢市
・高野山清浄心院-和歌山県伊都郡高野町
肖像画 ・上杉神社蔵-山形県米沢市
神社 ・松岬神社(祭神名:上杉景勝公ほか)-山形県米沢市

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