解説筒井順慶(つついじゅんけい)

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戦国武将:筒井順慶(つついじゅんけい)筒井順慶 天文18年-天正12年(1549-1584):奈良県

筒井順慶(つついじゅんけい)は、戦国大名で大和国筒井城主・郡山城主(現奈良県大和郡山市)。本名は藤勝(ふじかつ)。順慶は法名である。筒井氏は、大神神社(現奈良県桜井市)の神官の家系だった。

順慶が2歳のとき、父順昭の死去で家督を継ぎ、叔父順政の後見を受けた。15歳で順政も失うと、大和で隆盛を極めていた松永久秀によって筒井城を追われた。

筒井城奪還に賭ける順慶は、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と結び、松永軍に反撃を開始した。17歳のときである。見事筒井城を奪還した順慶は、春日社に参拝し、その後出家して順慶を名乗った。

22歳のとき、明智光秀・佐久間信盛を介して織田信長に恭順し、大和の所領を守ることを図った。そして、27歳のとき、信長によって大和国守護に任ぜられ、また、久秀が信長に反旗を翻した際には、久秀の居城である信貴山城攻略の先鋒を務めた。松永氏滅亡により、大和は平定された。

信長の死後は、豊臣秀吉に仕えたが、胃痛を訴え、36歳の若さで急逝した。子の無かった順慶の跡は従弟にあたる定次が継いだ。定次はあまり評判の良くない武将で、秀吉によって大和国44万石から伊賀国(現三重県)10万石に転封された。この秀吉の所業を恨んだ定次は、関ヶ原の戦いでは東軍につき所領を安堵されたものの、突然幕命により改易され、大坂方に通じた疑いで自害を命ぜられた。筒井氏の嫡流は絶えたものの、傍流は旗本などになり、現在まで続いている。

親交のあった明智光秀が、本能寺の変後、順慶の加勢を期待したが、結局順慶は中立を保った。この故事から日和見することをその地名にちなみ「洞ヶ峠を決め込む」というが、順慶は三成に派兵するつもりは無く、戦場まで赴いていないので、この伝承は順慶にとっては不本意なものである。幼い頃から苦労し、10代後半で自城を奪還するに至った武勇や知略は特筆するものがあろう。順慶がもう少し長生きであれば、筒井氏はまた違う道をたどったかも知れない。


■筒井順慶(つついじゅんけい)ゆかりの地

墓所 ・筒井順慶歴史公園-奈良県大和郡山市
・高野山奥の院-和歌山県伊都郡高野町
肖像画 ・伝香寺蔵-奈良県奈良市

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