解説津軽為信(つがるためのぶ)

  • Yahoo!ブックマークに登録する
  • はてなブックマークに登録する
  • livedoorクリップに登録する
  • FC2ブックマークに登録する
  • Buzzurlブックマークに登録する
  • del.icio.usブックマークに登録する
  • ニフティクリップに登録する
戦国武将:津軽為信(つがるためのぶ)津軽為信 天文19年-慶長12年(1550-1607):青森県

津軽為信(つがるためのぶ)は、初代陸奥弘前藩主。
現青森県弘前市を中心とした青森県西半部を支配した。明治維新まで続く大名家の祖となった為信だが、その道のりは決して楽なものではなかった。

為信は、清和源氏の流れを汲み、陸奥一帯を支配していた武家である南部氏の一族である大浦守信の嫡男であったが、12歳のときに、南部氏のお家騒動で父は戦死し、叔父で、大浦氏当主為則に養育された。後見を受けてはいたが、為則には跡取りとなる息子があり、大浦氏のなかでの為信の立場は微妙であった。

しかし、17歳のときに、大浦氏の当主に納まり、南部氏をも押さえ、38歳の頃には津軽一帯を治める、南部一族のなかでも押しも押されぬ実力者となっていた。この間の経緯は詳しくはわかっていない。

その後、豊臣秀吉から所領を安堵され、その地位は安泰したかに思えたが、南部氏から為信の所業を私闘を禁ずる秀吉の命令(惣無事令)に違反する、との訴えが出され、危うい立場となった。しかし、石田光成の取り成しにより、事なきを得たようである。このことからも、為信の地位が、南部一族内で穏便に築かれたものはないことを示している。

秀吉の死後、関が原の戦いでは、為信と三男信枚は東軍に、嫡男信健は西軍についた。どちらが勝利しても家が残るように策したと思われる。結果、為信に始まった津軽氏は、東北の雄藩として、明治維新まで、その血脈を伝えることになる。

なお、先のお家騒動で為信の立場を救った石田光成には、大変恩義を感じていたようで、三男信枚の嫡室に光成の三女辰姫を娶り、関が原の戦いで西軍にいた嫡男信健は、大坂城内にいた光成の子息重成を津軽まで連れ帰り、面倒をみたという。

なお、為信は長く美しい髭を生やしていたという。三国志の英雄関羽に私淑してのことらしい。享年58歳。


■津軽為信(つがるためのぶ)ゆかりの地

墓所 ※重要文化財
・革秀寺-青森県弘前市
肖像画 ・弘前城資料館収蔵(革秀寺蔵)
木像 ※県重要文化財
・長勝寺-青森県弘前市
銅像 ・弘前文化センター正面入り口前

TOPPAGE  TOP