解説藤堂高虎(とうどうたかとら)

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戦国武将:藤堂高虎(とうどうたかとら)藤堂高虎 弘治2年-寛永7年(1556-1630):愛媛県

藤堂高虎(とうどうたかとら)は、戦国武将で江戸幕府の大名。藤堂氏は、近江国犬上郡藤堂村(現滋賀県犬上郡)出身の小領主。

はじめ、浅井長政に仕え、15歳のときに織田軍と戦った姉川の戦いで戦功を挙げた。18歳のとき、浅井氏が織田信長に滅ぼされると、浅井氏の旧臣に仕えた。

やがて信長の甥である織田信澄、次いで豊臣秀吉の弟である豊臣秀長に仕え所領を与えられた。30歳のとき、紀州征伐ののち紀伊国粉河(現和歌山県紀の川市)に所領を与えられ、和歌山城築城の普請奉行に任命された。36歳のときに秀長が死去すると、その養子の豊臣秀保に仕えた。40歳のときに、秀保が17歳の若さで早逝すると、出家して高野山に上った。しかし、秀吉の召還のために還俗し、伊予国板島(現愛媛県宇和島市)7万石の大名となる。

関ヶ原の戦いでは東軍につき、戦功があって伊予国今治(現愛媛県今治市)20万石に加増された。その後、伊勢国津藩(現三重県津市)32万3千石に転封となり、死去した。享年75歳。藤堂氏は、その後津藩を領し続け、明治維新を迎えた。

藤堂高虎といえば、主君を何度も変えた戦国武将として有名であり、32万石の大々名に納まったことからも好印象はあまりないようである。確かに、ひとりの主君に無骨に仕え続ける武将は魅力的かも知れない。しかし、己の才覚で主君を替え、成功するというのもひとつの生き方であろう。また、築城の名手としても知られ、初めて普請した和歌山城を皮切りに、宇和島城(現愛媛県宇和島市)、今治城(現愛媛県今治城)、津城(現三重県津市)、伊賀上野城(現三重県伊賀市)、膳所城(現滋賀県大津市)などがある。


■藤堂高虎(とうどうたかとら)ゆかりの地

墓所 ・寛永寺寒松院(上野恩賜公園内)-東京都台東区
肖像画 ・個人蔵
銅像 ・津城址-三重県津市
・今治城址-愛媛県今治市
神社 ・高山神社-三重県津市
祭神名:藤堂高虎公

 
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