解説徳川家康(とくがわいえやす)

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戦国武将:徳川家康(とくがわいえやす)徳川家康 天文11年-元和2年(1543-1616):愛知県

徳川家康(とくがわいえやす)は、三河国(現愛知県)出身の戦国大名。はじめ松平氏。松平氏は、15世紀に三河に台頭した在地の小豪族で、15世紀以前の動向は不明である。

家康は、三河国岡崎城主(現愛知県岡崎市)松平広忠の嫡男として誕生した。6歳の家康は、人質として駿河国(現静岡県)の有力守護今川義元の元へ向う途中、家臣の裏切りで、尾張国(現愛知県)の織田信秀の元へ送られた。15歳の信長と出会い、数年を過ごした後、今川氏の元へ送られた。

桶狭間の戦いで今川義元が倒れると、18歳の家康は、ようやく岡崎城に入城することが出来た。信長と同盟を結び(清須同盟)、24歳で、三河守護の勅命が下った。この期に徳川氏と改姓し、本姓を清和源氏とした。30歳のとき、武田信玄の三河侵攻を受け、家康軍は歴史的な惨敗を喫した(三方ヶ原の戦い)。恐怖のあまり馬上で脱糞したというエピソードは有名である。この苦い経験を忘れないために描かせた自画像(「しかみ像」徳川美術館所蔵)が残されている。40歳のとき、盟友信長が本能寺の変で倒れると、豊臣秀吉に恭順した。

秀吉の死後、「(秀吉の後継者)秀頼が成人するまでは政事を家康に託す」という遺言を盾に権力を集約しはじめ、関ヶ原の戦いで豊臣氏を一大名に落とすと、征夷大将軍となって、江戸幕府初代将軍に就任した。61歳のときである。その後、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、戦乱の世を収束させると、駿府城(現静岡県)に隠居した。享年75歳。死因は従来、鯛の天ぷらによる食中毒と言われていたが、現在は胃癌と考えられている。

「人の一生は重荷を負いて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。心に望み起こらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。勝事ばかりを知りて、負くる事を知らざれば、害、其の身に至る。己を責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり。」は家康の遺訓として有名である。また、どんな境遇にあっても忠誠を尽くす、粘り強く誠実な家臣団に恵まれた。秀吉に「徳川の宝は何か?と」問われ、「五百騎の三河武士である」と答えた逸話が残っている。


■徳川家康(とくがわいえやす)ゆかりの地

墓所 ・東照宮-栃木県日光市
・大樹寺-愛知県岡崎市
・高野山奥の院-和歌山県伊都郡高野町
肖像画 (しかみ像)・徳川美術館蔵-愛知県名古屋市
・大坂城天守閣蔵-大阪府大阪市
銅像 ・岡崎城址公園-愛知県岡崎市
・駿府城址公園-静岡県静岡市
・江戸東京博物館-東京都墨田区
神社 ・東照宮(祭神名:東照大権現(徳川家康の神号))-栃木県日光市

     
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