ポイント解説東海地方

point-1豐臣秀吉(とよとみのひでよし)・羽柴 秀吉

戦国武将:豐臣秀吉(とよとみのひでよし / とよとみひでよし)/ 羽柴 秀吉(はしばひでよし)豊臣秀吉 天文6年-慶長3年(1537-1598):愛知県

豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、尾張国愛知郡(現愛知県名古屋市)出身の戦国大名。父木下弥衛門は、織田家の足軽とも半農の百姓とも考えられているが、少なくとも秀吉は、多くの戦国武将とは異なり、城持ち、家来持ちの家柄出身ではなかったことは確かである。はじめ今川氏に出仕し、18歳の頃、織田信長に仕え、頭角を現した。

24歳のとき、信長の朝倉義景征討に従軍した。進軍中に、同盟関係にあった浅井長政の裏切りに遭い、織田軍は挟み撃ちになった。その危機に、秀吉は明智光秀らと殿軍を務めたが、この戦いは日本の合戦史上中有数の撤退戦である(金ヶ崎の戦い)。27歳のとき、浅井氏の旧領北近江(現滋賀県)に封ぜられ、国持ち大名へ出世した。また、織田家中の有力武将である丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつ貰い受けて羽柴姓と改めた。

46歳のとき、本能寺の変が起こると、秀吉は敏速に休戦条約を結び、帰京した(中国大返し)。明智光秀を征討した秀吉は、同じく有力者だった柴田勝家も倒し、信長の後継者としての地位を確立した。49歳のとき、関白に就任し、翌年には朝廷より豊臣の姓を賜り、関白職に就いた。その後、京都の聚楽第に後陽成天皇を迎え、天下に権威を示し、小田原の後北条氏を倒して、全国統一を成し遂げた。更に明征服を目論み、朝鮮へ出兵した(文禄・慶長の役)。この無謀な出兵の半ばに秀吉は没した。享年62歳。時世の句は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」

秀吉は、300人にも及ぶ側室を置いていたが、実子は少ない。男子3人が知られるが、うち2人は夭折し、57歳のときに得た秀頼は、母淀君とともに大坂城で自害した(大坂夏の陣)。秀頼の男児は落城とともに殺害され、女児は仏門に入ったが、子孫を残さなかったため、秀吉の直系の子孫は存在しない。

人心を掴むことに長け、また、人と同じように振舞うことを嫌う、いわゆるかぶき者であったことは、「羽柴」・「豊臣」という、新しい姓を選んだことからもわかる。その気概が、稀にみる生涯を歩ませたのかも知れない。


■豐臣秀吉(とよとみのひでよし)ゆかりの地

墓所 ・豊国神社-京都府京都市
・高野山奥の院-和歌山県伊都郡高野町
肖像画 ・高台寺蔵-京都府京都市
・逸翁美術館蔵-大阪府池田市
銅像 ・中村公園-愛知県名古屋市
・常泉寺-愛知県名古屋市
神社 ・豊国神社(祭神名:豊国大明神(豊臣秀吉の神号))-京都府京都市
・豊國神社(祭神名:豊国大明神(豊臣秀吉の神号))-大阪府大阪市
・豊国神社(祭神名:豊国大明神(豊臣秀吉の神号))-愛知県名古屋市


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point-2九鬼嘉隆(くきよしたか)

戦国武将:九鬼嘉隆(くきよしたか)九鬼嘉隆 天文11年-慶長5年(1542-1600):三重県

九鬼嘉隆(くきよしたか)は、志摩国(現三重県志摩半島)の戦国武将で水軍大将。九鬼氏第8代当主。「海賊大名」の異名をとる。九鬼氏の出自は、熊野本宮大社に仕えた一族から派したとも、京都の下級貴族が伊勢国(現三重県の大部分)へ移住して発展したものとも言われているが、詳細は不明である。10歳のとき、父である波切城主(現三重県志摩市)定隆が死去すると、兄浄隆が家督を継いだが、ほどなく戦死したため、嘉隆は浄隆の嫡男澄隆を補佐した。この頃、滝川一益の仲介で織田信長に仕えたという。

28歳のとき、伊勢に侵攻した信長軍の一員として、水軍を率いて活躍し、正式に織田氏の家臣団として認められた。伊勢を中心に戦功を重ねた嘉隆は、42歳のときに信長より九鬼氏の家督を継ぐように取り計らってもらい、志摩国の領有を認められた。

関ヶ原の戦いが起こると、嘉隆は西軍に、嫡男守隆は東軍に与した。家名を残すための嘉隆の計らいだったという。守隆は家康へ父嘉隆の助命を嘆願し、容れられたものの、行き違いがあり自害した。享年59歳。

その後の九鬼氏は、嘉隆の思惑どおり家名を繋ぎ、その子孫は摂津国三田藩主(現兵庫県三田市)、丹波国綾部藩主(現京都府綾部市)として明治維新を迎え、その子孫は子爵に列せられた。


■九鬼嘉隆(くきよしたか)ゆかりの地

墓所 ・常安寺-三重県鳥羽市
・首塚・胴塚-答志島(三重県鳥羽市)
肖像画 ・常安寺蔵-三重県鳥羽市


point-3徳川家康(とくがわいえやす)

戦国武将:徳川家康(とくがわいえやす)徳川家康 天文11年-元和2年(1543-1616):愛知県

徳川家康(とくがわいえやす)は、三河国(現愛知県)出身の戦国大名。はじめ松平氏。松平氏は、15世紀に三河に台頭した在地の小豪族で、15世紀以前の動向は不明である。

家康は、三河国岡崎城主(現愛知県岡崎市)松平広忠の嫡男として誕生した。6歳の家康は、人質として駿河国(現静岡県)の有力守護今川義元の元へ向う途中、家臣の裏切りで、尾張国(現愛知県)の織田信秀の元へ送られた。15歳の信長と出会い、数年を過ごした後、今川氏の元へ送られた。

桶狭間の戦いで今川義元が倒れると、18歳の家康は、ようやく岡崎城に入城することが出来た。信長と同盟を結び(清須同盟)、24歳で、三河守護の勅命が下った。この期に徳川氏と改姓し、本姓を清和源氏とした。30歳のとき、武田信玄の三河侵攻を受け、家康軍は歴史的な惨敗を喫した(三方ヶ原の戦い)。恐怖のあまり馬上で脱糞したというエピソードは有名である。この苦い経験を忘れないために描かせた自画像(「しかみ像」徳川美術館所蔵)が残されている。40歳のとき、盟友信長が本能寺の変で倒れると、豊臣秀吉に恭順した。

秀吉の死後、「(秀吉の後継者)秀頼が成人するまでは政事を家康に託す」という遺言を盾に権力を集約しはじめ、関ヶ原の戦いで豊臣氏を一大名に落とすと、征夷大将軍となって、江戸幕府初代将軍に就任した。61歳のときである。その後、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、戦乱の世を収束させると、駿府城(現静岡県)に隠居した。享年75歳。死因は従来、鯛の天ぷらによる食中毒と言われていたが、現在は胃癌と考えられている。

「人の一生は重荷を負いて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。心に望み起こらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。勝事ばかりを知りて、負くる事を知らざれば、害、其の身に至る。己を責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり。」は家康の遺訓として有名である。また、どんな境遇にあっても忠誠を尽くす、粘り強く誠実な家臣団に恵まれた。秀吉に「徳川の宝は何か?と」問われ、「五百騎の三河武士である」と答えた逸話が残っている。


■徳川家康(とくがわいえやす)ゆかりの地

墓所 ・東照宮-栃木県日光市
・大樹寺-愛知県岡崎市
・高野山奥の院-和歌山県伊都郡高野町
肖像画 (しかみ像)・徳川美術館蔵-愛知県名古屋市
・大坂城天守閣蔵-大阪府大阪市
銅像 ・岡崎城址公園-愛知県岡崎市
・駿府城址公園-静岡県静岡市
・江戸東京博物館-東京都墨田区
神社 ・東照宮(祭神名:東照大権現(徳川家康の神号))-栃木県日光市

     

point-4織田信長(おだのぶなが)

戦国武将:織田信長(おだのぶなが)織田信長 天文3年-天正10年(1534-1582):愛知県

織田信長(おだのぶなが)は、尾張国(現愛知県)出身の戦国大名。信長は、尾張国守護代織田氏の家老職を担う分家の出身だった。守護は足利氏の有力一門である斯波氏だが実権は無く、守護代の家老に過ぎない父信秀に実権が移りつつあった。信長は次男だったが、正室腹のため嫡男とされ、2歳で那古野城主(現愛知県名古屋市)となる。しかし、幼い頃から奇矯な振る舞いが多く、「尾張の大うつけ」と言われていた。

信長が10代半ばの頃、今川氏と織田氏の争いに巻き込まれた6歳の徳川家康が人質として送られてきた。15歳のとき、美濃国(現岐阜県)の斉藤道三と和睦が成立すると、信長の正室として、道三の娘である濃姫を迎えた。18歳のとき、父信秀が急死し、家督を継いだ。信長自身と同母弟信行との家督争い、主家斯波氏や本家にあたる守護代織田氏の権力争いを知勇で潜り抜け、26歳のときには尾張一国を手中にした。

その後、周辺大名の駿河国(現静岡県)の今川義元(桶狭間の戦い)、美濃国の斉藤龍興(稲葉山城の戦い)を倒し、33歳にして尾張・美濃両国を領する大名になった。この頃、美濃を「岐阜」と名付け、また「天下布武」の朱印を用いはじめた。

尾張を統一した後、一度目の上洛を果し、室町幕府第13代将軍足利義輝に謁見した。その後、義輝が暗殺され、傀儡として第14代将軍足利義栄が擁立されると、信長は義輝の弟である足利義昭を奉戴して、義昭を第15代将軍とした。信長35歳のときである。その後、名ばかりの将軍義昭を京都から追放し、全国統一まであと一歩というところで、明智光秀に襲撃され、本能寺でその生涯を閉じた。享年49歳。信長の次男信雄の家系は徳川幕府のよって大名となり、明治維新後は子爵となった。七男信高、九男信貞の家系は、徳川幕府の下で旗本となってその家名を伝えた。

生前の信長と交流のあったイエズス会の教師ルイス・フロイスは、「信長は長身痩躯で武芸に長け、頭脳明晰である」と評している。また、信長は自身から盟約や和睦を破ったことは一度も無いという律儀な性格であった。身分にこだわらず、庶民のなかに入り、その姿をよく見せていたという。一方、公家とも趣味のあった者とは交流を深くし、既存の価値観にこだわらない、自由な精神の持ち主であったと思われる。


■織田信長(おだのぶなが)ゆかりの地

墓所 ・本能寺-京都府京都市
・大徳寺総見院-京都府京都市
・妙心寺玉鳳院-京都府京都市
・阿弥陀寺-京都府京都市
・高野山奥の院-和歌山県伊都郡高野町
肖像画 ・長興寺蔵-愛知県豊田市
・三宝寺蔵-山形県天童市
銅像 ・清洲公園-愛知県清須市
・岐阜公園-岐阜県岐阜市
・(今川義元と並ぶ)桶狭間古戦場公園-愛知県名古屋市
・岐阜駅前-岐阜県岐阜市
神社 ・建勲神社(祭神名:織田信長公)-京都府京都市
・建勲神社(祭神名:織田信長公)-山形県天童市


point-5斎藤道三(さいとうどうさん)

戦国武将:斎藤道三(さいとうどうさん)斉藤道三 明応4年?-弘治2年(1494?-1556):岐阜県

斉藤道三(さいとうどうさん)は、美濃国(現岐阜県南部)の戦国大名。「美濃の蝮」の異名を取り、油売りから戦国大名へ成りあがった下剋上の典型とされてきた。しかし、近年の研究では、美濃の国盗りは、道三一代ではなく、父長井新左衛門尉との父子二代によるものと考えられている。

はじめ、京都妙覚寺の僧侶であった道三の父新左衛門尉は、西村と名乗り、美濃に下り、長井弥次郎に使え、頭角を現し、美濃国守護土岐氏の小守護代長井氏を名乗るようになった。その息子が道三である、という。

通説では、道三は、京都の北面武士を代々勤める武士の家の生まれで、幼少の頃に出家し、学識を積んだという。学友が美濃の寺へ住職として赴いたのを気に還俗し、油問屋の娘を娶り、油商人として美濃に知己を得、長井氏の家臣西村氏となることに成功し、とうとう長井氏の家督を奪うことに成功した、という。

父新左衛門尉によるものか道三自身によるものかは不明だが、美濃国小守護代長井氏となった道三は、美濃国守護土岐頼芸の信頼を得ると、美濃国守護代斎藤氏の名跡を継ぎ、稲葉山城の主となった。

47歳?のとき、主君頼芸と頼芸弟の頼満毒殺事件で、両者の間に亀裂が入り、道三は頼芸を追放し、事実上の美濃国主となった。はじめ、尾張守護代の織田氏は土岐氏の味方であったが、親族の死を契機に、織田氏は道三側に立ち、織田信長と道三の娘の婚姻が行なわれた。

61歳?のとき、家督を息子義龍に譲り、出家して隠居した。しかし、道三は義龍を廃嫡しようとし、その動きを察知した義龍によって討たれた。享年63歳か。道三が義龍を廃嫡しようとした理由は、義龍生母が、頼芸の愛妾であったことから、義龍を実子かどうか疑っていたこと、義龍の武将としての器量を疑っていたことが挙げられる。義龍は、朝倉義景を頼り、朝倉氏が信長に滅ぼされたときに、その運命をともにした。


■斎藤道三(さいとうどうさん)ゆかりの地

墓所 ・常在寺-岐阜県岐阜市
・道三塚-岐阜県岐阜市
肖像画 ・常在寺蔵-岐阜県岐阜市


point-6今川 義元(いまがわ よしもと)

戦国武将:今川 義元(いまがわ よしもと)今川義元 永正16年-永禄3年(1519-1560):静岡県

今川義元(いまがわよしもと)は、駿河国(現静岡県中東北部)を治めた駿河守護今川氏第9代当主、守護大名のちに戦国大名。今川氏は、足利氏の傍流吉良氏の分家であるが、室町幕府将軍家が断絶した場合、その地位を継承できるとされる、室町幕府内では由緒正しい家柄だった。義元の母は、権大納言中御門宣胤の娘で、朝廷との繋がりも深かった。

義元は五男であったため、4歳で仏門に出され、京都の臨済宗の寺で学んでいた。しかし、18歳のとき、家督を継いでいた長兄氏輝が亡くなったため、正室の子ということもあり、還俗して家督を継ぐことになった。

19歳のとき、隣国甲斐(現山梨県)の守護武田信虎の娘(信玄の同母姉)を正室に迎え、駿河・甲斐の両国の結束を固めた。この姻戚関係に相模(現神奈川県)の北条氏や尾張(現愛知県西部)の織田氏は警戒を深めた。一方、三河(現愛知県東部)の松平氏からは恭順を受け、嫡男竹千代(後の徳川家康)を人質に迎え、三河守護を兼任した。続いて尾張侵攻を進めたが、桶狭間の戦いで、織田信長に敗れた。享年42歳。

義元の死後、嫡男氏真は、徳川家康に高家として仕え、500石の知行を得た。しかし、明治維新とともに、その知行を失って没落し、跡取りの無かったことも加え、断絶した。

一般的に義元は、白塗りで公家かぶれ姿の戦国大名に似つかわしくない暗愚な武将のイメージがあると思う。桶狭間の戦いで、2万5千もの軍を率いながら、10分の1ばかりの信長に討たれたことが、そのイメージに拍車をかけている。しかし、馬に乗らず輿で移動するなどのいささかコミカルに描かれる公家風の姿は、当時の社会では教養と地位の高さを示すものであり、義元はその示威効果を最大限に利用していたのである。領国経営や軍備にも辣腕ぶりを発揮しており、義元は決して暗愚な武将ではなかったはずである。義元が破れたことはともかく、今川氏は衰退した原因は、積極的に過ぎる領国拡大による疲弊が理由であろう。


■今川 義元(いまがわ よしもと)ゆかりの地

墓所 ・桶狭間古戦場伝説地-愛知県豊明市
・天澤廃寺(首塚)-静岡県静岡市
・大聖寺(胴塚)-愛知県豊川市
・高徳院-愛知県豊明市
・臨済寺今川廟(天澤寺より首塚も移転)-静岡県静岡市
・観泉寺-東京都杉並区
肖像画 ・大聖寺蔵-愛知県豊川市
木像 ・臨済寺蔵-静岡県静岡市
銅像 (織田信長と並ぶ)
・桶狭間古戦場公園-愛知県名古屋市


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