ポイント解説東北地方

point-1二本松義継(にほんまつよしつぐ)

戦国武将:二本松義継(にほんまつよしつぐ)二本松義継 天文21年-天正13年(1552-1585):福島県

二本松義継(にほんまつよしつぐ)は、室町将軍足利氏の支流である畠山氏第15代当主であり、戦国大名。二本松氏は、陸奥安達郡二本松城主であったことからの俗称で、義継の代では畠山氏を名乗っていた。

第14代当主義国の嫡男として生まれ、父の死去を受けて29歳で家督を継いだ。近隣の伊達政宗に厳しく攻められ、二本松のわずかな土地を残して、所領をことごとく没収された。

政宗の父輝宗の仲介により、政宗に和平を申し入れたものの、受け入れられず、状況打破のために輝宗を拉致し、二本松城へ連れて行こうとしたところ、政宗に追われ、輝宗もろとも殺害された。享年34歳。義継の遺体は、政宗に斬り刻まれた後、藤蔓で繋がれ、吊るされたという。

嫡男義綱は、義継の死後、政宗の猛攻を受けて二本松城を落ち、蘆名氏を頼って会津へ退去した。しかし、その蘆名氏も政宗に滅ぼされ、義綱も16歳で殺害された。次男義孝は、上杉景勝から徳川氏譜代の水野忠善に仕え、故領地にちなみ、二本松氏を名乗った。この義孝の家系は、水野氏の転封に伴い、出羽山形藩に移り、現在にいたる。


■二本松義継(にほんまつよしつぐ)ゆかりの地

墓所 ・称念寺(二本松氏累代の墓所)-福島県二本松市
・粟の巣古戦場跡(最期の地)-福島県二本松市
・梟首(義継首がさらされた場所)-福島県二本松市
・頭陀寺(義継首塚)-福島県伊達郡頭陀町


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point-2蘆名盛氏(あしなもりうじ)

戦国武将:蘆名盛氏(あしなもりうじ)蘆名盛氏 大永元年-天正8年(1521-1580):福島県

蘆名盛氏(あしなもりうじ)は、陸奥会津地方を領した戦国大名。盛氏で第16代目にあたる蘆名氏は、源頼朝に近侍した三浦氏の庶流。14世紀には会津に土着していた。

伊達政宗の曽祖父にあたる稙宗の娘を正室とし、21歳のときに、父盛舜から家督を譲られた。41歳のときに、隠居剃髪し、家督を嫡男盛興に譲った。しかし、54歳のとき、盛興が男子を残さずに29歳の若さで亡くなったため、人質として預かっていた二階堂盛隆を盛興室と婚姻させ、養子として蘆名氏の家督を継がせた。

隠居後も積極的に領地支配に関与した盛氏であったが、家中には二階堂氏出身の盛隆に対する不満や、長年にわたる伊達氏や佐竹氏との抗争で領地は疲弊し、その晩年にはかつての力を失いつつあった。享年60歳。

養子盛隆は優れた武将であったが、生後一ヶ月の男児を残して23歳で夭折した。男児の母は盛興未亡人で伊達輝宗の妹であったため、伊達氏の助力を得て蘆名氏をまとめようとしたが、政宗は同盟関係を破棄し、また残された男児も3歳の幼さで夭折し、蘆名氏は断絶した。


■蘆名盛氏(あしなもりうじ)ゆかりの地

墓所 ・宗英寺-福島県会津若松市
木像 ・宗英寺蔵-福島県会津若松市


point-3上杉景勝(うえすぎかげかつ)

戦国武将:上杉景勝(うえすぎかげかつ)上杉景勝 弘治元年-元和9年(1556-1623):山形県

上杉景勝(うえすぎかげかつ)は、出羽米沢藩初代藩主。長尾氏の出身。母は上杉謙信の姉で、景勝は、謙信の甥にあたる。

8歳のときから、実子の無かった謙信の養子となったが、一方で謙信は北条氏から人質として迎えた景虎を景勝の姉と婚姻させ、養子とした。景勝15歳、景虎17歳のことである。2人の養子を擁する謙信の思惑には諸説あるが、景勝は、20歳のときに、謙信から弾正少弼の位を譲られ、謙信の後継者として、景虎よりも一歩先んじていたともいえる。

後継者を明言せずに謙信が急死したため、景勝は景虎と家督争いをすることになる(御館の乱)。武田勝頼を味方につけた景勝は、景虎一族を自害に追い込み、あわせてお家騒動で表面化した不満分子を一掃し、25歳にして、晴れて上杉家の当主となった。

武田氏の滅亡に続いて、織田信長の越中侵攻を受け、上杉氏は滅亡の危機に陥るが、信長の死により、窮地を脱することができた。しかし、織田軍の侵攻と、御館の乱により、国内は疲弊し、謙信の築いた上杉氏の力は大きく衰えてしまった。

豊臣秀吉政権時代には、秀吉と好を通じ、その信頼を得、越後佐渡の金銀山の支配を任せられ、また五大老のひとりとなり、会津120万石へ増転封された。

秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは、旧交のあった石田光成率いる西軍につき、勝者である徳川家康よりその咎を受け、出羽米沢30万石へ減転封させられた。

石高が4分の1に減ったにもかかわらず、景勝は家臣をひとりも召し放ち(解雇)しなかったという。これが米沢藩財政逼迫の原因でもあるが、藩の経営に熱心に取り組んだという。享年69歳。

その後、上杉氏は、減封されつつも幕末まで米沢藩を治め、明治にいたり、伯爵に列せられた。


■上杉景勝(うえすぎかげかつ)ゆかりの地

墓所 ・上杉家廟所景勝廟-山形県米沢市
・高野山清浄心院-和歌山県伊都郡高野町
肖像画 ・上杉神社蔵-山形県米沢市
神社 ・松岬神社(祭神名:上杉景勝公ほか)-山形県米沢市


point-4最上義光(もがみよしあき)

戦国武将:最上義光(もがみよしあき)最上義光 天文15年-慶長19年(1546-1614):山形県

最上義光(もがみよしあき)は、初代出羽山形藩当主。最上氏は室町将軍足利氏の支流。14世紀には出羽山形地方を領していた名族である。義光の2つ下の妹は伊達輝宗に嫁し、正宗を生んだので、義光は、正宗の伯父にあたる。

25歳のとき、嫡男であった義光は家督を相続したものの、家中や周辺領主との関係が安定せず、39歳のときに、ようやく、その名乗りである最上郡(現山形県最上郡)全域を手中にすることができた。

豊臣秀吉政権下では、領地の安堵を上杉景勝寄りに差配され、不満を感じていたともいわれている。さらに、秀吉の後継者とされていた秀次に、美貌の誉れ高かった次女駒姫を望まれ、しぶしぶ差し出すも、秀次の凋落とともに駒姫も15歳の若さで処刑されるなど、義光の秀次加担を疑われ、秀吉の不興を買ったことから、義光の秀吉への不満と徳川家康への接近は強くなっていき、関ヶ原の戦いでは、家康の東軍方につき、現在の山形県のほぼ全域にあたる出羽山形57万石を安堵され、69歳で亡くなった。

しかし、義光の意向とも徳川幕府の陰謀ともいわれているが、嫡男義康は暗殺された。次男家親が家督を継いだものの、義光の後を追うように36歳で急死したため、その嫡子義俊が13歳で家督を継いだが、家中は安定せず、とうとう改易の憂き目をみることになる。その後、最上氏は近江蒲生郡(現滋賀県)5000石を領し、家格は大名と同じ旗本交替寄合ではあったが、昔日の隆盛は見る影も無くなった。

義光は、大河ドラマ『独眼竜正宗』で、正宗を陥れる悪役として描かれているが、実際は、敵対した氏族の再興を赦すなど、度量が広く、士卒までを大切にする人物であったという。また、幼い頃から身体が大きく、その姿は威風堂々としていた。また、自国経営にも寛容で、義光支配中はほとんど一揆が起きなかったという。


■最上義光(もがみよしあき)ゆかりの地

墓所 ・光禅寺-山形県山形市
銅像 ・霞城公園(山形城址)


point-5伊達政宗(だてまさむね)

戦国武将:伊達政宗(だてまさむね)伊達政宗 永禄10年-寛永13年(1567-1636):宮城県

伊達政宗(だてまさむね)は、陸奥仙台藩の初代藩主。伊達氏の名乗りは、陸奥国伊達郡(現福島県)に由来し、古来より、「いだて」・「いだち」と呼ばれていた。政宗自身も書簡に「Idate Masamune」と署名しており、本来は「いだて」氏と名乗っていたと思われる。畿内で「だて」とも読まれ、江戸時代を通じても2つの読みが混用されていた。

18歳のとき、41歳の壮年であった父輝宗から、その資質を高く評価され、家督を譲られた。しかし、その翌年、政宗は、和議に訪れた二本松(畠山)義継の謀略で、父輝宗を結果的に殺害することになってしまう。5分の1以下の軍勢で父の敵をとった後、さらに領土拡大に努め、陸奥の雄として、その存在を示すことになる。

関ヶ原の戦いでは、徳川家康の東軍方につき、現在の宮城県全域と岩手県・福島県・茨城県・滋賀県を含めた仙台藩62万石を安堵され、70歳で亡くなった。その後、伊達氏は明治に至り、伯爵に列せられた。

通り名の「独眼竜」は、幼少時に天然痘で右目を失明して隻眼であったことから、その武勇と人物に敬意を表して呼ばれるようになったものである。政宗自身は、「父母よりもらった眼を失い申し訳ない」と、隻眼を好まず、自身の像を作るときは両眼を入れるように遺言したという。また、派手好みの秀吉に気に入られるように、豪華絢爛な戦装束を着し、京都の民衆も歓声をあげたという。これが派手・豪華、または格好の良さを表わす「伊達者(だてもの)」の語源となった。

政宗に天下取りの野望があったかは諸説あるが、遣欧使節を送り、支倉常長をローマ教皇に謁見させたこと、三代将軍家光の就任に一役買い、家光からも尊敬されていたことなど、その独自の世界観は異彩を放っていたと思われる。


■伊達政宗(だてまさむね)ゆかりの地

墓所 ・瑞鳳殿-宮城県仙台市
肖像画 ・宮城県仙台市博物館所蔵
銅像 ・青葉山公園(青葉城址)
・岩出山城址-宮城県大崎市
神社 ・青葉神社(祭神名:武振彦命(伊達政宗の神号))-宮城県仙台市


point-6秋田実季(あきたさねすえ)

戦国武将:秋田実季(あきたさねすえ)秋田実季 天正4年-万治2年(1576-1660):秋田県

秋田実季(あきたさねすえ)は、出羽秋田地方を治めた戦国大名。代々秋田城介を名乗り、秋田を本拠としていたが、領地を没収され、転封させられ、再び秋田を領することは適わなかった。

12歳のときに父親が亡くなり、家督を継いだが、その幼さゆえに親族から不満が出、3年の歳月をかけて、ようやくこれを鎮圧した。しかし、この騒動が、私闘を禁じる豊臣秀吉の命令(惣無事令)に違反したと見なされ、領地を一部没収された。

没収された領地は、実季が代官となり、実質管理できたが、関ヶ原の戦いでの身の処し方を徳川家康に責められ、常陸宍戸(現茨城県)へ転封させられた。その際、秀吉の命で代官となっていた旧領秋田の地は家康に没収されてしまった。実季、27歳のときである。

36歳のときに、代々自称してきた秋田城介に晴れて補任され、秋田氏の面目躍如となった。しかし、大坂夏の陣では、豊臣方と激突したものの大敗を喫し、さらに、お家騒動の咎めを受け、伊勢で30年に渡る蟄居の末、85歳で亡くなった。

長男俊季は、幕府に精勤し、陸奥美春藩(現福島県)の藩主となった。実季の伊勢蟄居の理由は、俊季との不仲が原因とも言われている。その子孫は、明治時代になり、子爵に列せられた。


■秋田実季(あきたさねすえ)ゆかりの地

墓所 ・永松寺-三重県伊勢市
木像 ・芳賀寺-福井県小浜市


point-7南部信直(なんぶのぶなお)

戦国武将:南部信直(なんぶのぶなお)南部信直 天文15年-慶長4年(1546-1599):岩手県

南部信直(なんぶのぶなお)は、南部氏第26代当主。陸奥盛岡藩初代藩主利直の父。南部氏中興の祖と言われているが、その地位は安穏として得たものではなかった。

信直は南部氏第22代当主の次男の長子として生まれたが、母は正室ではなく、いわゆる庶子であった。しかし、その有能さを買われ、男子のいない第24代当主晴政の娘婿として養嗣子に迎えられた。

しかし、25歳のとき、晴政に待望の男子晴継が誕生してからは、晴政に疎まれるようになり、31歳のときに正室が亡くなると、身の危険を感じたのか、信直は養嗣子の座を辞退して隠遁した。

信直37歳のときに、晴政が亡くなり、信直の地位を脅かした晴継が南部氏第25代当主となった。しかし、13歳の少年だった晴継は、当主となって早々に不可解な死を遂げた。真相は不明だが、信直の暗殺説、陰謀説もある。

晴れて南部氏第26代当主に納まった信直は、豊臣秀吉に接近し、所領を安堵された。家中の不満分子を制圧したことによって、領土は伊達政宗と近接することとなった。盛岡城を本城としたのは、正宗の侵略に対する備えであったという。

南部氏と領地の地盤を固めた信直は、遠征先の福岡城にて54歳で病死した。信直の長男、利直は初代盛岡藩主となり、その血脈は脈々と伝えられ、明治時代には伯爵に列せられた。


■南部信直(なんぶのぶなお)ゆかりの地

墓所 ・三光寺-青森県三戸郡南部町
肖像画 ・個人蔵


point-8津軽為信(つがるためのぶ)

戦国武将:津軽為信(つがるためのぶ)津軽為信 天文19年-慶長12年(1550-1607):青森県

津軽為信(つがるためのぶ)は、初代陸奥弘前藩主。
現青森県弘前市を中心とした青森県西半部を支配した。明治維新まで続く大名家の祖となった為信だが、その道のりは決して楽なものではなかった。

為信は、清和源氏の流れを汲み、陸奥一帯を支配していた武家である南部氏の一族である大浦守信の嫡男であったが、12歳のときに、南部氏のお家騒動で父は戦死し、叔父で、大浦氏当主為則に養育された。後見を受けてはいたが、為則には跡取りとなる息子があり、大浦氏のなかでの為信の立場は微妙であった。

しかし、17歳のときに、大浦氏の当主に納まり、南部氏をも押さえ、38歳の頃には津軽一帯を治める、南部一族のなかでも押しも押されぬ実力者となっていた。この間の経緯は詳しくはわかっていない。

その後、豊臣秀吉から所領を安堵され、その地位は安泰したかに思えたが、南部氏から為信の所業を私闘を禁ずる秀吉の命令(惣無事令)に違反する、との訴えが出され、危うい立場となった。しかし、石田光成の取り成しにより、事なきを得たようである。このことからも、為信の地位が、南部一族内で穏便に築かれたものはないことを示している。

秀吉の死後、関が原の戦いでは、為信と三男信枚は東軍に、嫡男信健は西軍についた。どちらが勝利しても家が残るように策したと思われる。結果、為信に始まった津軽氏は、東北の雄藩として、明治維新まで、その血脈を伝えることになる。

なお、先のお家騒動で為信の立場を救った石田光成には、大変恩義を感じていたようで、三男信枚の嫡室に光成の三女辰姫を娶り、関が原の戦いで西軍にいた嫡男信健は、大坂城内にいた光成の子息重成を津軽まで連れ帰り、面倒をみたという。

なお、為信は長く美しい髭を生やしていたという。三国志の英雄関羽に私淑してのことらしい。享年58歳。


■津軽為信(つがるためのぶ)ゆかりの地

墓所 ※重要文化財
・革秀寺-青森県弘前市
肖像画 ・弘前城資料館収蔵(革秀寺蔵)
木像 ※県重要文化財
・長勝寺-青森県弘前市
銅像 ・弘前文化センター正面入り口前


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