解説立花宗茂(たちばなむねしげ)

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戦国武将:立花宗茂(たちばなむねしげ)立花宗茂 永禄10年-寛永19年(1567-1643):福岡県

立花宗茂(たちばなむねしげ)は、筑前国(現福岡県)の戦国大名。豊後国(現大分県)の有力大名大友氏の傍流で家臣の家柄である高橋氏の出身。高橋鎮種の長男として誕生したが、その器量を見込まれて、嗣子の無い立花道雪(戸次鑑連)の養子に望まれた。高橋氏にとっては嫡男であったため、辞退したが容れられず、宗茂は立花氏となった。立花氏も高橋氏と同じく大友氏の傍流で家臣の家柄だった。道雪には一人娘誾千代がおり、当時でも珍しいことであったが、主家である大友氏の赦しを得て、家督を娘である誾千代に譲っている。そして、誾千代と宗茂を婚姻させた後、家督を宗茂に譲ったのである。

豊臣秀吉の九州征討では、大友氏下で活躍し、その功を認めた秀吉から筑後国柳川藩(現福岡県柳川市)13万2千石を与えられ、大友氏から独立した直臣大名として認められた。秀吉は宗茂を「忠義も武勇も九州随一である」と評したという。

秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは、徳川家康から多大な恩賞とともに東軍へつくように要請されたが、宗茂は秀吉に恩義を感じて西軍に留まった。東軍の猛攻に遭い、柳川城は開城、宗茂は改易され、浪人となった。34歳のときである。宗茂の器量を惜しんだ加藤清正や前田利長から召し抱えの話もあったが固辞したものの、家康からの度重なる誘いは断りきれず、陸奥国棚倉(現福島県東白川郡棚倉町)1万石の知行を与えられた。大坂の陣のとき、宗茂が再び豊臣方に与するのを恐れた家康は、宗茂を側に置いていた。そして54歳のとき、旧領の筑後国柳川藩10万9200石に加増転封された。宗茂は、改易から旧領に返り咲いた唯一の武将である。その後、家督を養子の忠茂に譲った後、江戸屋敷で死去した。享年76歳。


■立花宗茂(たちばなむねしげ)ゆかりの地

墓所 ・広徳寺-東京都練馬区
・福厳寺-福岡県柳川市
肖像画 ・福厳寺蔵-福岡県柳川市
神社 ・三柱神社-福岡県柳川市
祭神名:松陰霊神(立花宗茂の神号)

 
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