解説島津義弘(しまづよしひろ)

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戦国武将:島津義弘(しまづよしひろ)島津義弘 天文4年-元和5年(1535-1619):鹿児島県

島津義弘(しまづよしひろ)は、薩摩国(現鹿児島県)の戦国大名。島津氏は、渡来系氏族秦氏の後裔惟宗氏が、平安貴族藤原氏近衛流の代官として、九州に下り、その後、源頼朝によって正式に地頭職に任ぜられたことから、土着して勢力を広げた一族である。

義弘は、第15代当主貴久の次男として生まれた。義弘32歳のとき、父貴久が隠居して長兄義久が家督を継ぐと、弟たち(歳久・家久)たちと協力して、兄を補佐し、島津氏の勢力拡大に尽力した。豊臣秀吉による九州征討軍に対して奮戦したが、兵力が及ばず、敗北。兄義久は降伏したものの、義弘は徹底抗戦を唱え、義久の必死の説得によって、15歳の息子久保を人質に出し、降伏した。53歳。

秀吉が死去すると、在国の義久は親豊臣、大坂にいた義弘はほぼ中立、という異なった立場にあったが、正規の島津軍を動かす権限のない義弘は、自身の手勢をもって東軍に加担した。そして、徳川家康から要請を受けて伏見城に籠城する鳥居元忠のもとへ馳せたが、元忠から「援軍の要請はしていない」と入城を拒否され、義弘は当初の意志を翻して西軍に参じた。しかし、石田三成らは、寡勢の義弘軍を軽視したため、戦意を喪失。西軍が敗走をはじめると義弘軍は孤立し、義弘は切腹しようとしたが、従軍していた甥の豊久(義弘の末弟家久の息子)に説得され、決死の強行突破を試みる。このとき義弘軍が取った戦法が「捨て奸」(すてがまり。座禅陣とも)で、数名ずつが死ぬまで敵を足止めし、それが全滅すると次の足止め隊を置いていくものである。この退却戦で、甥の豊久をはじめ家老ら多くの将兵が犠牲となり、薩摩へ生還できたのは、300人からわずかに80数人だったという(日本の合戦史上有数の退却戦。島津の退き口)。

薩摩に帰国した義弘は、軍備を図る一方で家康との和平交渉に尽力した。「関ヶ原での行動は義弘個人のもので、義久や島津氏とは無関係」という論法で片をつけ、島津氏の本領安堵と家督相続(義久に男子がなかったため、義弘の存命の三男忠恒)を認められた。享年85歳。義弘を第17代当主とする説もあるが、関ヶ原の戦いにおいて島津本軍を動かす権限の無かったことから、家督は継いでいない、との味方も根強い。


■島津義弘(しまづよしひろ)ゆかりの地

墓所 ・福昌寺-鹿児島県鹿児島市
肖像画 ・尚古集成館蔵-鹿児島県鹿児島市
銅像 ・伊集院駅前-鹿児島県日置市
神社 ・徳重神社-鹿児島県日置市
祭神名:島津義弘公
・精矛神社-鹿児島県姶良市
祭神名:島津義弘公

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