ポイント解説四国地方

point-1山内一豊(やまうちかつとよ)

戦国武将:山内一豊(やまうちかつとよ)山内一豊 天文14年?-慶長10年(1545?-1605):高知県

山内一豊(やまうちかつとよ)は、尾張国(現愛知県)出身の戦国武将で江戸幕府の大名。一般に「やまのうちかずとよ」と読まれることが多いが、「やまのうち」は分家読みで、本家は「やまうち」と読む。名前も史料から「かつとよ」と読んだことがわかっている。山内氏は、織田信長の家系とは別系の岩倉織田氏の重臣だった。

一豊は、岩倉織田氏の家老だった山内盛豊の三男として生まれた。15歳のとき、岩倉織田氏と信長の対立で岩倉織田氏は滅亡、一豊にとっては長兄にあたる跡取りと、父である当主を続いて失った山内氏は一族離散し、諸国を流浪することになる。

一豊は、尾張国内のさまざまな武将に仕え、24歳の頃、信長に仕え、豊臣秀吉の与力になったと考えられている。その後、秀吉のもとで歴戦を重ね、その死後は、徳川家康に味方して関ヶ原の戦いでは東軍についた。

戦功により土佐一国(現高知県)20万2600石を与えられた。享年60歳。その後、山内氏は明治維新まで土佐藩を治め、侯爵に列せられた。

山内一豊といえば、「一豊の妻」千代も内助の功の鑑として有名である。2006年放送のNHK大河ドラマ「巧妙が辻」でも描かれた。また、幕末には土佐藩から多くの英傑が出ている。その原動力のひとつに、藩内に根強くあった階級差別が言われている。山内氏家臣を上士、山内氏以前に土佐を支配していた長宗我部氏の旧臣を郷士として差別し続けていたのである。坂本竜馬も武市瑞山(半平太)も郷士出身である。また、土佐といえば鰹が有名だが、食中毒を恐れた一豊は、刺身で食べることを禁止した。刺身で食べたかった領民たちの苦肉の策が表面をあぶる鰹のタタキを生んだという。


■山内一豊(やまうちかつとよ)ゆかりの地

墓所 ・真如寺-高知県高知市
肖像画 ・土佐山内家宝物資料館蔵-高知県高知市
銅像 ・高知城址-高知県高知市
神社 ・山内神社-高知県高知市
祭神名:山内一豊公


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point-2三好長慶(みよしながよし/ちょうけい)

戦国武将:三好長慶(みよしながよし/ちょうけい)三好長慶 大永2年-永禄7年(1522-1564):徳島県

三好長慶(みよしながよし/ちょうけい)は、阿波国(現徳島県)の戦国大名。名を音読されることが多いが法名ではなく、読みやすさからか慣習になっているようである。三好氏は、清和源氏の支流で、鎌倉時代後期には阿波国内で活躍していたことがわかっている。

長慶は、三好元長の嫡男として生まれた。元長は、室町幕府管領で畿内でその権力を一手に握っていた細川晴元の重臣だったが、その勢力を恐れた晴元によって殺害されてしまう。長慶11歳のときのことである。幼少であった長慶は赦され、晴元に仕えた。しかし、父の遺領を継げなかったことを遺憾に思った長慶は、18歳のときに軍を率いて上京し、領地を再び得ることに成功した。長慶の勢いに恐れをなした室町幕府第12代将軍義晴は近江へ逃走したという。その後、晴元に忠実に仕えたが、28歳のとき、晴元と第13代将軍義輝を近江へ追いやり、事実上、畿内での実権を握った。享年45歳。

長慶を失った三好氏は、その権力を家宰の松永久秀に奪われ、嫡流は滅亡した。京都に上り将軍に圧力をかけたこと、堺の経済力に目をつけたこと、朝廷の権威を重要視し公家と交流を持つなど、織田信長と同じような行動がみられるが、長慶は、あくまで幕府の権威をもとに自身の権力を得ようとしたのであり、信長のように、倒幕して自身を天下人とする考えはなかったことが、両者の決定的な違いである。


■三好長慶(みよしながよし/ちょうけい)ゆかりの地

墓所 ・大徳寺聚光院-京都府京都市
肖像画 ・大徳寺聚光院蔵(京都国立博物館寄与)


point-3藤堂高虎(とうどうたかとら)

戦国武将:藤堂高虎(とうどうたかとら)藤堂高虎 弘治2年-寛永7年(1556-1630):愛媛県

藤堂高虎(とうどうたかとら)は、戦国武将で江戸幕府の大名。藤堂氏は、近江国犬上郡藤堂村(現滋賀県犬上郡)出身の小領主。

はじめ、浅井長政に仕え、15歳のときに織田軍と戦った姉川の戦いで戦功を挙げた。18歳のとき、浅井氏が織田信長に滅ぼされると、浅井氏の旧臣に仕えた。

やがて信長の甥である織田信澄、次いで豊臣秀吉の弟である豊臣秀長に仕え所領を与えられた。30歳のとき、紀州征伐ののち紀伊国粉河(現和歌山県紀の川市)に所領を与えられ、和歌山城築城の普請奉行に任命された。36歳のときに秀長が死去すると、その養子の豊臣秀保に仕えた。40歳のときに、秀保が17歳の若さで早逝すると、出家して高野山に上った。しかし、秀吉の召還のために還俗し、伊予国板島(現愛媛県宇和島市)7万石の大名となる。

関ヶ原の戦いでは東軍につき、戦功があって伊予国今治(現愛媛県今治市)20万石に加増された。その後、伊勢国津藩(現三重県津市)32万3千石に転封となり、死去した。享年75歳。藤堂氏は、その後津藩を領し続け、明治維新を迎えた。

藤堂高虎といえば、主君を何度も変えた戦国武将として有名であり、32万石の大々名に納まったことからも好印象はあまりないようである。確かに、ひとりの主君に無骨に仕え続ける武将は魅力的かも知れない。しかし、己の才覚で主君を替え、成功するというのもひとつの生き方であろう。また、築城の名手としても知られ、初めて普請した和歌山城を皮切りに、宇和島城(現愛媛県宇和島市)、今治城(現愛媛県今治城)、津城(現三重県津市)、伊賀上野城(現三重県伊賀市)、膳所城(現滋賀県大津市)などがある。


■藤堂高虎(とうどうたかとら)ゆかりの地

墓所 ・寛永寺寒松院(上野恩賜公園内)-東京都台東区
肖像画 ・個人蔵
銅像 ・津城址-三重県津市
・今治城址-愛媛県今治市
神社 ・高山神社-三重県津市
祭神名:藤堂高虎公

 

point-4仙石秀久(せんごくひでひさ)

戦国武将:仙石秀久(せんごくひでひさ)仙石秀久 天文21年-慶長19年(1552-1614):香川県

仙石秀久(せんごくひでひさ)は、美濃国(現岐阜県)出身の戦国大名。仙石氏は、清和源氏土岐氏の支流を称している。

仙石久盛の四男として生まれた。四男であったため、他家へ養子に出されたが、兄たちが次々に亡くなったので呼び戻され、家督を継いだ。はじめ斎藤氏に仕え、斎藤氏が信長に滅ぼされると、信長配下の豊臣秀吉の家臣となった。

19歳のとき、浅井・朝倉両軍と戦った姉川の戦いで戦功をあげたことを皮切りに、秀吉のもとで活躍した。本能寺の変の後、柴田勝家側に付いた長宗我元親征討のため、淡路島から四国へ出兵し、賤ヶ岳の戦いが終結すると、淡路国(現兵庫県淡路島)5万石の大名となった。32歳のときである。その後、四国を押さえ、34歳のときに讃岐国高松(現香川県高松市)10万石を与えられた。

しかし、秀吉による九州攻めの際に、功を焦った秀久は無謀な戦法を使い、豊臣軍に多大な損害を与えてしまう。さらに、自身は讃岐へ逃走するという失態を演じた。秀吉は激怒し、所領は没収、高野山へ追放された。35歳。

徳川家康の斡旋で、小田原攻めで豊臣軍に参加すると抜群の戦功をあげ、信濃国小諸(現長野県小諸市)5万石の大名に復活した。秀吉が死去すると、家康と親交のあった秀久は、関ヶ原の戦いでも東軍として参戦。江戸時代に入り死去した。享年63歳。

仙石氏は、小諸藩から同じく信濃国上田藩(現長野県上田市)、さらに但馬国出石藩(現兵庫県豊岡市)と転封して明治維新を迎え、子爵に叙された。

何といっても秀久の最大の特徴は、一度改易になったものの同じ主君のもとで返り咲いたことである。武将らしい容貌をしていたと伝えられ、加えてその武勇は、信長、秀吉、家康という戦国の三傑を魅了したのだろう。九州攻めでの失態と、小田原攻めでの勇姿(箱根の仙石原の地名は、秀久の活躍に依るとの伝承もある)という二面性に、秀久の人間臭さが現れているのかも知れない。


■仙石秀久(せんごくひでひさ)ゆかりの地

墓所 ・芳泉寺-長野県上田市
・西念寺-長野県佐久市
肖像画 ・個人蔵


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