解説仙石秀久(せんごくひでひさ)

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戦国武将:仙石秀久(せんごくひでひさ)仙石秀久 天文21年-慶長19年(1552-1614):香川県

仙石秀久(せんごくひでひさ)は、美濃国(現岐阜県)出身の戦国大名。仙石氏は、清和源氏土岐氏の支流を称している。

仙石久盛の四男として生まれた。四男であったため、他家へ養子に出されたが、兄たちが次々に亡くなったので呼び戻され、家督を継いだ。はじめ斎藤氏に仕え、斎藤氏が信長に滅ぼされると、信長配下の豊臣秀吉の家臣となった。

19歳のとき、浅井・朝倉両軍と戦った姉川の戦いで戦功をあげたことを皮切りに、秀吉のもとで活躍した。本能寺の変の後、柴田勝家側に付いた長宗我元親征討のため、淡路島から四国へ出兵し、賤ヶ岳の戦いが終結すると、淡路国(現兵庫県淡路島)5万石の大名となった。32歳のときである。その後、四国を押さえ、34歳のときに讃岐国高松(現香川県高松市)10万石を与えられた。

しかし、秀吉による九州攻めの際に、功を焦った秀久は無謀な戦法を使い、豊臣軍に多大な損害を与えてしまう。さらに、自身は讃岐へ逃走するという失態を演じた。秀吉は激怒し、所領は没収、高野山へ追放された。35歳。

徳川家康の斡旋で、小田原攻めで豊臣軍に参加すると抜群の戦功をあげ、信濃国小諸(現長野県小諸市)5万石の大名に復活した。秀吉が死去すると、家康と親交のあった秀久は、関ヶ原の戦いでも東軍として参戦。江戸時代に入り死去した。享年63歳。

仙石氏は、小諸藩から同じく信濃国上田藩(現長野県上田市)、さらに但馬国出石藩(現兵庫県豊岡市)と転封して明治維新を迎え、子爵に叙された。

何といっても秀久の最大の特徴は、一度改易になったものの同じ主君のもとで返り咲いたことである。武将らしい容貌をしていたと伝えられ、加えてその武勇は、信長、秀吉、家康という戦国の三傑を魅了したのだろう。九州攻めでの失態と、小田原攻めでの勇姿(箱根の仙石原の地名は、秀久の活躍に依るとの伝承もある)という二面性に、秀久の人間臭さが現れているのかも知れない。


■仙石秀久(せんごくひでひさ)ゆかりの地

墓所 ・芳泉寺-長野県上田市
・西念寺-長野県佐久市
肖像画 ・個人蔵

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