解説里見義堯(さとみよしたか)

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戦国武将:里見義堯(さとみよしたか)里見義堯 永正4年-天正2年(1507-1574):千葉県

里見義堯(さとみよしたか)は、安房(現千葉県南部)の戦国大名。
里見氏は、源氏の流れを汲む新田氏の庶流。室町時代後期には安房を領していたようである。江戸時代に滝沢馬琴によって書かれた伝奇小説『南総里見八犬伝』でも有名。物語のなかの里見氏当主義実は曽祖父に、八犬士を産む伏姫は大叔母(実在はしない)にあたる。

27歳のとき、父実堯が後見をしていた、里見氏当主義豊に殺害される。義堯は、北条氏綱の支援を受け、上総金谷城(現千葉県富津市)で挙兵し、家督を奪った。

家督を得るために北条氏の支援を受けた義堯でったが、上総(現千葉県中部)の真理谷氏の家督争いをめぐって、北条氏と対立した。北条氏康は、今川義元、武田信玄との間で三国同盟を締結し、その勢力をさらに増大させ、上総西部のほとんどを北条氏に奪われることになった。そのため、義堯は、上杉謙信、太田氏、佐竹氏などと同調して、北条氏に対抗する姿勢を貫いた。

54歳のとき、北条氏の侵攻に抗戦し、上杉軍の援護を受けて大勝し、さらに反攻して以前に奪われた上総西部を奪還した。その後、58歳のときには、下総まで侵攻し、北条軍を迎え撃った。一時は勝利したものの、大敗を喫し、再び上総の大半を失い、安房へ退却した。この敗戦で、里見氏の勢力は衰退したものの、61歳のとき、安房まで攻める北条軍を徹底抗戦して撃退し、とうとう北条軍を上総からも撤退させた。里見氏の最大判図を描き、久留里城(現千葉県君津市)にて死去した。享年68歳。

戦上手で、武将としての器量に優れていた義堯を失った里見氏は、その後、徐々に衰退した。北条氏討伐への遅参と、私闘を禁ずる命令(惣無事令)の違反を豊臣秀吉から咎められ、上総・下総を没収された。関ヶ原の戦いでは、徳川家康方に付き、戦功をあげて加増されたものの、義堯の孫にあたる当主義康とその弟義高は次々と改易され、里見氏は歴史の表舞台から姿を消した。


■里見義堯(さとみよしたか)ゆかりの地

墓所 ・延命寺-千葉県南房総市
聖観音立像 (加勢観音、守護仏)
・正源寺蔵-千葉県君津市

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