佐竹義宣(さたけよしのぶ)
佐竹義宣 元亀元年-寛永10年(1570-1633):茨城県佐竹義宣(さたけよしのぶ)は、出羽久保田(秋田)藩初代当主。
佐竹氏は源氏の一流で、平安時代末より常陸国(現茨城県)を領していた名族である。義宣は、20歳のとき、父義重の隠居により家督を相続した。
義宣は豊臣秀吉に良く仕え、常陸国54万石を安堵された。石田光成と親交が深く、加藤清正らによる光成襲撃事件では、宇喜多秀家・徳川家康とともに、光成救出に動き、光成が死んだら「生き甲斐が無くなる」と言ったとも言われている。
義宣31歳のときに勃発した関ヶ原の戦いでは、秀吉への恩義と光成への友情を優先しようと、家臣らの反対を押し切って西軍(大坂方)寄りへの立場を表明した。しかし、隠居した父義重は東軍(家康方)に味方すると明言し、佐竹氏としての立場が不明瞭となり、結局中立の立場を取らざるを得なかった。
しかし、この曖昧な態度を家康に咎められ、常陸水戸54万石から出羽秋田21万石への減転封を命ぜられることとなった。
時流に乗るよりも義を重んじた義宣の態度が、佐竹氏が400年以上領していた常陸国を失わせたことになる。しかし、その義理堅く律儀な人柄は、家康や二代将軍秀忠からも重んじられたという。享年64歳。
また、築城技術にも評価があり、義宣の建てた久保田城は、残念ながら明治時代に焼失したが、名城の誉れが高かったという。
佐竹氏は、代々出羽秋田藩主の地位を守り、明治に至って侯爵に列せられた。
■佐竹義宣(さたけよしのぶ)ゆかりの地
| 墓所 | ・天徳寺-秋田県秋田市 |
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