佐々成政(さっさなりまさ)
佐々成政 天文5年-天正16年(1536-1588):富山県佐々成政(さっさなりまさ)は、越中国(現富山県)の戦国大名。佐々氏は尾張国春日井郡(現愛知県春日井市)比良城を領有した土豪。相次いで兄たちが早世したため、15歳で家督を継いだ。
織田信長に仕え、馬廻から、32歳のときに織田軍精鋭部隊の黒母衣衆の一員に選ばれた。その後、戦功を重ね、40歳のときには、柴田勝家配下で越中を治めることになった。さらに46歳のときには越中半国を正式に与えられ、富山城(現富山県富山市)を大規模に改修し、入城した。
信長の死後、柴田勝家と豊臣秀吉の間で実権争いが起こると、勝家側についた。勝家の失脚後、秀吉に恭順すると見せかけ、徳川家康・織田信雄側につき、秀吉側についた前田利家、さらに敵対していた越後の上杉景勝の間で板ばさみになった。秀吉と家康の間に和議が成立すると、進退が窮まり、家康に再び秀吉に対して挙兵を促すため、極寒の飛騨山脈を越えた。「さらさら越え」である。しかし、命がけの説得も適わず、とうとう秀吉に富山城を包囲され、降伏した。50歳のときである。その後、越中のほぼ全域を没収され、妻子と共に大坂に移され、以後は御伽衆として秀吉に仕え、ほぼ隠居同然の扱いとなった。
52歳のとき、肥後一国(現熊本県)を与えられたが、性急な改革に反発した肥後国人に蜂起され、納めることができず、切腹させられた。享年53歳。
早世した長男に男子が無く、直系の子孫は絶えた。実姉の子孫は水戸徳川家に仕え、その曾孫にあたる佐々宗淳(さっさむねきよ)は、水戸光圀に仕え、『水戸黄門』の「助さん」こと、佐々木助三郎のモデルとされている。
■佐々成政(さっさなりまさ)ゆかりの地
| 墓所 | 法園寺-兵庫県尼崎市 |
|---|---|
| 肖像画 | 富山県富山市郷土博物館蔵 |
| 銅浮彫画 | 常願寺川佐々成政橋-富山県上新川郡大山町 |
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