解説真田 信繁 (さなだ のぶしげ)

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戦国武将:真田 信繁 (さなだ のぶしげ)真田信繁 永禄10年-慶長20年(1567-1615):長野県

真田信繁(さなだのぶしげ)は、信濃国(現長野県)の戦国武将である。「幸村(ゆきむら)」の通称で有名だが、直筆の書状や当時の史料には「幸村」の名が使われているものは存在しない。

「幸村」の呼称は、「信繁」の死後50年以上経って書かれた軍記物語『難波戦記』に登場したものである。さらに、江戸時代から大正時代に流行した「真田十勇士」の講談や小説の人気も合わせて一般的になったと考えられる。

真田氏は、信濃国小県郡(現長野県上田市の大部分)を治めていた滋野氏嫡流海野氏の傍流とされる、地方豪族である。信繁の祖父にあたる幸隆が小県郡の真田郷を領有した後、真田氏を名乗ったと思われる。武田信玄の信濃侵攻に伴い、武田氏に仕えるようになった。織田信長によって、武田氏が滅ぼされると、信長に恭順し、その所領を安堵された。

関ヶ原の戦いでは、父真幸とともに西軍につき、東軍についた長兄である信之とは敵対することになった。鎧を赤で統一しており、「真田の赤備え」と称された。大坂の役、特に状況の悪化していた夏の陣での奮戦は有名である。この戦いは、徳川家康が自軍に「三日分の兵糧を持って参陣せよ」と言ったと伝えられるほど、勝敗は初めから決していたといっても過言ではないのだが、このような状況下で、信繁は、およそ3500勢で、家康本陣へ突撃し、その馬印を倒すまでに至った。家康は、その攻撃のすさまじさに、三方ヶ原の戦い以来の自害を覚悟した、と伝えられている。結局、兵力の差から徳川軍にじりじりと追われ、撤退を余儀なくされた。四天王寺近くの安居神社(現大阪市天王寺区)境内で、傷兵の看病をしていたところを襲撃され、首を討たれた。享年49歳。

信繁の血統は、次男守信が、伊達家重臣片倉重長の室となっていた姉阿梅の縁で匿われ、仙台藩士となり、現在も仙台真田家として、伝わっている。


■真田 信繁 (さなだ のぶしげ)ゆかりの地

墓所 ・長国寺-長野県長野市
・竜安寺塔頭大珠院-京都府京都市
・田村家墓所-宮城県白石市
・一心院-秋田県大館市
肖像画 ・長野県上田市立博物館蔵
銅像 ・安居神社(最期の地)-大阪府大阪市

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