斎藤道三(さいとうどうさん)
斉藤道三 明応4年?-弘治2年(1494?-1556):岐阜県斉藤道三(さいとうどうさん)は、美濃国(現岐阜県南部)の戦国大名。「美濃の蝮」の異名を取り、油売りから戦国大名へ成りあがった下剋上の典型とされてきた。しかし、近年の研究では、美濃の国盗りは、道三一代ではなく、父長井新左衛門尉との父子二代によるものと考えられている。
はじめ、京都妙覚寺の僧侶であった道三の父新左衛門尉は、西村と名乗り、美濃に下り、長井弥次郎に使え、頭角を現し、美濃国守護土岐氏の小守護代長井氏を名乗るようになった。その息子が道三である、という。
通説では、道三は、京都の北面武士を代々勤める武士の家の生まれで、幼少の頃に出家し、学識を積んだという。学友が美濃の寺へ住職として赴いたのを気に還俗し、油問屋の娘を娶り、油商人として美濃に知己を得、長井氏の家臣西村氏となることに成功し、とうとう長井氏の家督を奪うことに成功した、という。
父新左衛門尉によるものか道三自身によるものかは不明だが、美濃国小守護代長井氏となった道三は、美濃国守護土岐頼芸の信頼を得ると、美濃国守護代斎藤氏の名跡を継ぎ、稲葉山城の主となった。
47歳?のとき、主君頼芸と頼芸弟の頼満毒殺事件で、両者の間に亀裂が入り、道三は頼芸を追放し、事実上の美濃国主となった。はじめ、尾張守護代の織田氏は土岐氏の味方であったが、親族の死を契機に、織田氏は道三側に立ち、織田信長と道三の娘の婚姻が行なわれた。
61歳?のとき、家督を息子義龍に譲り、出家して隠居した。しかし、道三は義龍を廃嫡しようとし、その動きを察知した義龍によって討たれた。享年63歳か。道三が義龍を廃嫡しようとした理由は、義龍生母が、頼芸の愛妾であったことから、義龍を実子かどうか疑っていたこと、義龍の武将としての器量を疑っていたことが挙げられる。義龍は、朝倉義景を頼り、朝倉氏が信長に滅ぼされたときに、その運命をともにした。
■斎藤道三(さいとうどうさん)ゆかりの地
| 墓所 | ・常在寺-岐阜県岐阜市 ・道三塚-岐阜県岐阜市 |
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| 肖像画 | ・常在寺蔵-岐阜県岐阜市 |
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