解説龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)

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戦国武将:龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)龍造寺隆信 享禄2年-天正12年(1529-1584):佐賀県

龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)は、肥前国(現佐賀県と長崎県の一部)の戦国大名。隆信は、大友氏、島津氏、有馬氏などと並ぶ龍造寺氏最盛期を築き、「肥前の熊」と呼ばれた。龍造寺氏は、平安時代の貴族藤原道隆の後裔を称するが不明。肥前東部から勢力を伸ばした在地豪族である。

隆信は、肥前国水ヶ江城主(現佐賀県佐賀市)龍造寺周家の長男として生まれた。17歳のとき、祖父家純と父周家が、龍造寺氏の主君である少弐氏への謀反の疑いをかけられ誅殺されると、隆信は逃れ、家督を継いだ。20歳のとき、本家の龍造寺氏の当主が死去すると、その未亡人を娶り、本家の方の家督も継いだ。これに不満を持つ家臣も多く、隆信は、当時中国地方から九州にかけて影響力を持っていた大内義隆に恭順し、その後ろ盾を得て、不満を抑えた。その後、義隆が倒れると、家臣に肥前を追われたが、25歳のとき、再び肥前を奪還した。

31歳のとき、かつての主家少弐氏を滅ぼしたのを皮切りに、肥前国内の諸豪族を平定し、34歳のときには東肥前の掌中にした。隆信の急進撃に、諸大名は恐れをなしたが、実力行使を繰り返し、40歳の時には、肥前統一を果した。しかし、島津家久・有馬晴信連合軍に大敗し、討ち取られた(沖田畷の戦い)。享年56歳。この大敗は、龍造寺氏の没落を決定づけ、その後、龍造寺氏の遺領は、家臣の鍋島氏に引き継がれた。


■龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)ゆかりの地

墓所 ・高伝寺-佐賀県佐賀市
肖像画 ・佐賀県立博物館蔵-佐賀県佐賀市
石像 ・燈堂-佐賀県佐賀郡川副町
神社 ・松原神社-佐賀県佐賀市
祭神名:龍造寺隆信公

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