大友宗麟(おおともそうりん)
大友宗麟 享禄3年-天正15年(1530-1587):大分県大友宗麟(おおともそうりん)は、豊後国(現大分県)の戦国大名で、大友氏第21代当主。本名は義鎮(よししげ)。宗麟は法名である。大友氏は、平安中期の武将である藤原秀郷流を称するが不明。鎌倉時代には鎌倉幕府御家人衆として勢力をもっていた九州の名族である。
宗麟は、第20代当主義鑑の嫡男として生まれた。父義鑑はかねがね宗麟の異母弟に家督を譲ろうと画策していた。宗麟21歳のとき、廃嫡の動きがあり、それを逆手にとって宗麟を擁する家臣たちは、義鑑と異母弟を排し、宗麟は家督を継いだ。
大内義隆が家臣の陶晴賢に討たれると、晴賢の要請もあり弟晴英を大内氏の新当主とする。しかし、毛利氏が大内氏・尼子氏を滅ぼすと、北九州に触手を伸ばしはじめた。宗麟は、毛利氏侵攻に加え、肥前国(現佐賀県と長崎県の一部)の龍造寺氏、薩摩国(現鹿児島県)の島津氏の侵攻もあり、毛利氏を安芸まで追いやることは出来たが、九州国内で領土を侵食され、とうとう、島津家久によって豊後国内を占領されてしまった。しかし、その本城である臼杵城(現大分県臼杵市)は死守した。57歳のときである。その後、豊臣秀吉軍の九州侵攻によって、島津軍は勢力を弱め、島津義久の降伏をみる一歩手前で病に倒れた。享年58歳。
家督を継いだ宗麟の長男義統は、秀吉に豊後一国を安堵したが、朝鮮出兵の失態を責められ、改易された。その後、大友氏は、徳川幕府で高家として存続した。
宗麟は、キリシタン大名として知られている。22歳のとき、豊後へ布教にやってきたイエズス会の宣教師、フランシスコ・ザビエルと出会っており、その27年後、49歳のときに洗礼を受けた。洗礼名は、ドン・フランシスコ。53歳のときには、天正遣欧少年使節では、宗麟の縁者の伊東マンショが出た。宗麟は、熱心なクリスチャンで、教義である「汝、殺すなかれ」と、武将としての立場を悩むこともあったようである。
■大友義鎮・大友宗麟(おおともよししげ・そうりん)ゆかりの地
| 墓所 | ・大友宗麟墓地公園-大分県津久見市 ・長泉寺(位牌)-大分県津久見市 ・瑞峯院-京都府京都市 |
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| 肖像画 | ・瑞峯院蔵-京都府京都市 |
| 銅像 | ・津久見駅前-大分県津久見市 ・大分駅前-大分県大分市 ・神宮寺浦南蛮貿易場跡-大分県大分市 |
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