解説太田資正(おおたすけまさ)

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戦国武将:太田資正(おおたすけまさ)太田資正 大永2年-天正19年(1522-1591):埼玉県

太田資正(おおたすけまさ)は、戦国時代の武将で、武蔵岩槻城(岩付城とも。現埼玉県さいたま市岩槻区)城主。江戸城を築いた太田道灌の曾孫にあたる。

父資頼、兄資顕とともに上杉氏に仕えていたが、17歳のときに父が死去し、兄が家督を継いで後、兄資顕と不仲であったため、岩槻城を出て、舅の難波田憲重と松山城(現埼玉県東松山市付近)に住んだという。本家である兄資顕は北条氏へ従属するも、資正は変わらず上杉氏に仕え続けた。

25歳のとき、主君上杉朝定が北条氏康との戦い(河越野戦)で討死したため、上杉氏は滅亡の危機になり、資正も松山城を出た。翌年、北条氏の隙を突いて松山城を奪還、兄資顕が死去すると、岩槻城へ入り、実力で家督を継いだ。26歳のときである。しかし、家臣のうち、親北条氏の一部は北条氏に下り、また松山城を任せていた上田朝直が北条氏に寝返り、さらに北条氏に岩槻城を囲まれ、とうとう資正も北条氏に下った。

資正は、忠実に北条氏に仕え、また、氏康も名家太田氏の資正を丁重に扱い、その嫡男氏資と娘を婚姻させた。しかし、39歳のとき、上杉謙信が小田原に侵攻してくると、上杉方に寝返り、北条氏から離反するようになる。

怒った氏康は、何度も岩槻城、松山城を攻めたが、常に太田氏側に援軍が現れ、北条軍は撤退せざるを得なかった。これは、資正が軍用犬を飼いならし、書状を入れた竹筒を入れた首輪を着けた犬を放ち、味方と連絡をとっていたためという。この資正の作戦は「日本史上の軍用犬の起源」と言われており、道灌に劣らない資正の名将ぶりである。

しかし、氏康の婿となり、親北条氏であった嫡男氏資に岩槻城を追われ、常陸国(現茨城県)の佐竹義重を頼り、北条氏と戦い続けた。そして、69歳のとき、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、宿敵北条氏の最期を見届けた。しかし、故地岩槻城に再び入ることは適わず、翌年、病死した。享年70歳。その後、太田氏は北条氏の滅亡とともに衰退した。


■太田資正(おおたすけまさ)ゆかりの地

墓所 ・浄瑠璃光寺(片野城址内)-茨城県石岡市
肖像画 ・天徳寺蔵-秋田県秋田市

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