解説太田道灌(おおたどうかん)

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戦国武将:太田道灌(おおたどうかん)太田道灌 永享4年-文明18年(1432-1486):東京都

太田道灌(おおたどうかん)は、室町時代中期・戦国時代初期の武将。
道灌は出家後の名乗りで、本名は資長(すけなが)である。太田氏は清和源氏の流れを汲み、関東管領上杉氏に仕えた。

25歳のとき、父資清から家督を譲られた。この頃、関東は、室町幕府方と幕府の関東の出先機関である鎌倉公方(後に古河公方)方に別れ、争っていた。上杉氏は幕府方だったため、太田氏も幕府方として、鎌倉公方方との抗争が絶えなかった。

源頼朝の挙兵以来の縁を持つ、房総(現千葉県)の名族千葉氏は鎌倉公方(古河公方)方であったが、それに対抗するため、両勢力の境界である利根川下流域に築城した。これが江戸城(現東京都千代田区)である。

関東における上杉氏と古河公方の争いは、30年に及び、道灌51歳のとき、ようやく和議が成立する。その間、上杉氏を支えたのは、道灌の軍略であった。道灌は、「上杉氏が領国支配が出来るのは、自分のおかげである」と、その書状に記すほど、自負を持っていた。

その存在を疎ましく思われたのか、または道灌自身に野心があったのかは定かではないが、主君上杉定正によって暗殺された。享年55歳。

太田氏はその後、岩槻城(現埼玉県)に養子資家が入ったが、戦国時代末には衰退した。


■太田道灌(おおたどうかん)ゆかりの地

墓所 ・大慈寺-神奈川県伊勢原市
・洞昌院-神奈川県伊勢原市
肖像画 ・大慈寺蔵-神奈川県伊勢原市
銅像 ・旧東京都庁舎→東京国際フォーラム内-東京都千代田区

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