解説織田信長(おだのぶなが)

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戦国武将:織田信長(おだのぶなが)織田信長 天文3年-天正10年(1534-1582):愛知県

織田信長(おだのぶなが)は、尾張国(現愛知県)出身の戦国大名。信長は、尾張国守護代織田氏の家老職を担う分家の出身だった。守護は足利氏の有力一門である斯波氏だが実権は無く、守護代の家老に過ぎない父信秀に実権が移りつつあった。信長は次男だったが、正室腹のため嫡男とされ、2歳で那古野城主(現愛知県名古屋市)となる。しかし、幼い頃から奇矯な振る舞いが多く、「尾張の大うつけ」と言われていた。

信長が10代半ばの頃、今川氏と織田氏の争いに巻き込まれた6歳の徳川家康が人質として送られてきた。15歳のとき、美濃国(現岐阜県)の斉藤道三と和睦が成立すると、信長の正室として、道三の娘である濃姫を迎えた。18歳のとき、父信秀が急死し、家督を継いだ。信長自身と同母弟信行との家督争い、主家斯波氏や本家にあたる守護代織田氏の権力争いを知勇で潜り抜け、26歳のときには尾張一国を手中にした。

その後、周辺大名の駿河国(現静岡県)の今川義元(桶狭間の戦い)、美濃国の斉藤龍興(稲葉山城の戦い)を倒し、33歳にして尾張・美濃両国を領する大名になった。この頃、美濃を「岐阜」と名付け、また「天下布武」の朱印を用いはじめた。

尾張を統一した後、一度目の上洛を果し、室町幕府第13代将軍足利義輝に謁見した。その後、義輝が暗殺され、傀儡として第14代将軍足利義栄が擁立されると、信長は義輝の弟である足利義昭を奉戴して、義昭を第15代将軍とした。信長35歳のときである。その後、名ばかりの将軍義昭を京都から追放し、全国統一まであと一歩というところで、明智光秀に襲撃され、本能寺でその生涯を閉じた。享年49歳。信長の次男信雄の家系は徳川幕府のよって大名となり、明治維新後は子爵となった。七男信高、九男信貞の家系は、徳川幕府の下で旗本となってその家名を伝えた。

生前の信長と交流のあったイエズス会の教師ルイス・フロイスは、「信長は長身痩躯で武芸に長け、頭脳明晰である」と評している。また、信長は自身から盟約や和睦を破ったことは一度も無いという律儀な性格であった。身分にこだわらず、庶民のなかに入り、その姿をよく見せていたという。一方、公家とも趣味のあった者とは交流を深くし、既存の価値観にこだわらない、自由な精神の持ち主であったと思われる。


■織田信長(おだのぶなが)ゆかりの地

墓所 ・本能寺-京都府京都市
・大徳寺総見院-京都府京都市
・妙心寺玉鳳院-京都府京都市
・阿弥陀寺-京都府京都市
・高野山奥の院-和歌山県伊都郡高野町
肖像画 ・長興寺蔵-愛知県豊田市
・三宝寺蔵-山形県天童市
銅像 ・清洲公園-愛知県清須市
・岐阜公園-岐阜県岐阜市
・(今川義元と並ぶ)桶狭間古戦場公園-愛知県名古屋市
・岐阜駅前-岐阜県岐阜市
神社 ・建勲神社(祭神名:織田信長公)-京都府京都市
・建勲神社(祭神名:織田信長公)-山形県天童市

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