解説毛利元就(もうりもとなり)

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戦国武将:毛利元就(もうりもとなり)毛利元就 明応6年-元亀2年(1497-1571):広島県

毛利元就(もうりもとなり)は、安芸国(現広島県)の戦国大名。毛利氏は、鎌倉幕府の名臣大江広元の四男季光を祖とする。戦国時代には、安芸国に土着して国人領主として勢力を拡大しつつあった。

元就は、毛利弘元の次男として誕生した。父弘元は、嫡男興元に家督を譲ると、幼い元就をともない多治比猿掛城(現広島県安芸高田市)に隠居した。5歳のときに母を10歳のときに父を相次いで失った元就は、家臣の裏切りに遭い、多治比猿掛城を追われた。その困窮した境遇を「乞食若殿」と揶揄されるなか、継母の杉大方に養育された。

20歳のとき、兄興元が急死したため、家督を幼少の嫡男が継ぎ、元就が後見した。幼い主君に代わり戦場に出た元就は、抜群の活躍を見せ、毛利家中の信望を集めていった。27歳のとき、主君が9歳で夭折すると、重臣たちの推挙で元就が家督を継いだ。毛利氏ははじめ尼子氏に仕えていたが、当主経久が、元就の家督就任に難色を示したことから両者の関係が悪化したため、元就は、尼子氏と勢力を二分していた大内氏に主君を替えた。

大内義隆に従軍して、尼子氏を攻めるなか、有力な大内氏傘下で水軍も擁する小早川家に、12歳の三男隆景を養子に出す。さらに、正室の実家で、大内氏から尼子氏に寝返った吉川氏を乗っ取る形で18歳の次男元春を養子に送り込んだ(毛利両川体制)。

こうして毛利氏は、吉川氏・小早川氏両家の勢力を得、安芸一国の支配権を手にした。義隆が家臣の陶晴賢に討たれると、元就は晴賢を討ち、また尼子氏を滅ぼすと、嫡男隆元に家督を譲って隠居した。享年75歳。

「三本の矢」の逸話が有名である。これは、元就が61歳で隠居する際に、3人の息子たちに宛てた文書「三子教訓状」(山口県防府市の毛利博物館蔵。重要文化財)が伝承されて発展したもののようである。この文書のなかで、「毛利の名を末代まで廃れさせるな」「3人の間柄に少しでも分け隔てがあってはならない。そのときは3人とも滅亡すると思え」などと14条に渡って元就の思うところが書かれている。毛利氏の未来を託すに足る3人の人並み優れた息子に恵まれたことは、元就の幸せであったかも知れない。


■毛利元就(もうりもとなり)ゆかりの地

墓所 ・大通院-広島県安芸高田市
肖像画 ・豊栄神社蔵-山口県山口市
銅像 (元就と幼い三子の像)・萩市民館-山口県萩市
・萩城址-山口県萩市
・吉田郡山城址-広島県安芸高田市
神社 ・豊栄神社-山口県山口市
祭神名:毛利元就公

 
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