解説最上義光(もがみよしあき)

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戦国武将:最上義光(もがみよしあき)最上義光 天文15年-慶長19年(1546-1614):山形県

最上義光(もがみよしあき)は、初代出羽山形藩当主。最上氏は室町将軍足利氏の支流。14世紀には出羽山形地方を領していた名族である。義光の2つ下の妹は伊達輝宗に嫁し、正宗を生んだので、義光は、正宗の伯父にあたる。

25歳のとき、嫡男であった義光は家督を相続したものの、家中や周辺領主との関係が安定せず、39歳のときに、ようやく、その名乗りである最上郡(現山形県最上郡)全域を手中にすることができた。

豊臣秀吉政権下では、領地の安堵を上杉景勝寄りに差配され、不満を感じていたともいわれている。さらに、秀吉の後継者とされていた秀次に、美貌の誉れ高かった次女駒姫を望まれ、しぶしぶ差し出すも、秀次の凋落とともに駒姫も15歳の若さで処刑されるなど、義光の秀次加担を疑われ、秀吉の不興を買ったことから、義光の秀吉への不満と徳川家康への接近は強くなっていき、関ヶ原の戦いでは、家康の東軍方につき、現在の山形県のほぼ全域にあたる出羽山形57万石を安堵され、69歳で亡くなった。

しかし、義光の意向とも徳川幕府の陰謀ともいわれているが、嫡男義康は暗殺された。次男家親が家督を継いだものの、義光の後を追うように36歳で急死したため、その嫡子義俊が13歳で家督を継いだが、家中は安定せず、とうとう改易の憂き目をみることになる。その後、最上氏は近江蒲生郡(現滋賀県)5000石を領し、家格は大名と同じ旗本交替寄合ではあったが、昔日の隆盛は見る影も無くなった。

義光は、大河ドラマ『独眼竜正宗』で、正宗を陥れる悪役として描かれているが、実際は、敵対した氏族の再興を赦すなど、度量が広く、士卒までを大切にする人物であったという。また、幼い頃から身体が大きく、その姿は威風堂々としていた。また、自国経営にも寛容で、義光支配中はほとんど一揆が起きなかったという。


■最上義光(もがみよしあき)ゆかりの地

墓所 ・光禅寺-山形県山形市
銅像 ・霞城公園(山形城址)

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