解説松永久秀(まつながひさひで)

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戦国武将:松永久秀(まつながひさひで)松永久秀 永正7年-天正5年(1510-1577):奈良県

松永久秀(まつながひさひで)は、大和国(現奈良県)を領した戦国大名。通称松永弾正(まつながだんじょう)。松永氏は本姓を源氏とも藤原氏とも称するが、久秀以前は不明である。近年の研究では石清水八幡宮付近(現京都府八幡市)の出自と考えられている。

その前半生は不明だが、30歳の頃、三好長慶に仕官したという。長慶が室町幕府の実権を握ると、久秀も頭角を現した。43歳のときに、長慶は畿内を平定し、久秀も摂津国滝山城主(現兵庫県神戸市)、続いて大和国信貴山城主(現奈良県生駒郡)となった。54歳のときに長慶が死去すると、三好氏の近臣である三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)とともに幼君三好義継に忠誠を尽くした。しかし、徐々に畿内の主導権をめぐって三好三人衆と対立するようにったが、主君義継に頼られたことから久秀は有利に転じ、畿内の主導権を得るに至った。この争いのときに、三好三人衆は東大寺に陣を置いたので、松永軍は東大寺を攻めることになり、久秀は大仏殿に火をかけた悪名を残してしまった。
フロイスによると、この出火の実際は、三好方によるものではないか、と記述されている。

59歳のとき、信長が上洛するといち早く恭順の意を表した。室町幕府第15代将軍の直臣となると、「大和一国は切り取り次第」とのお墨付きを得、徐々に大和を平定していった。しかし、上杉謙信・毛利輝元など反信長勢力に呼応すると、理由を問いただす信長からの使者にも会わず、信貴山城を包囲され、自爆した。享年68歳。嫡男久通も自害し、戦国大名松永氏は滅亡した。

久秀の生涯は、その謎めいた前半生から室町幕府第13代将軍足利義輝の暗殺、東大寺大仏殿焼失への関与など、下剋上を体現したまさに戦国大名の見本のようであった。同様な経歴を持つ斎藤道三とも「乱世の梟雄」として並び称されている。武勇に長け豪胆な性格だったという。なぜ、信長に反旗を翻したのか、その心根はわからないが、使者に会おうとしないその断固とした姿は、並々ならぬ想いがあったことが想像できよう。


■松永久秀(まつながひさひで)ゆかりの地

墓所 ・達磨寺-奈良県北葛城郡王子町

・妙恵会墓地-京都府京都市

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