ポイント解説九州地方

point-1伊東義祐(いとうよしすけ)

戦国武将:伊東義祐(いとうよしすけ)伊東義祐 永正9年-天正13年(1512-1585):宮崎県

伊東義祐(いとうよしすけ)は、日向国(現宮崎県)の戦国大名で、伊東氏第10代当主。伊東氏は、平安時代から伊豆で発展した工藤氏の傍流で、伊豆国伊東(現静岡県伊東市)を領した名族である。南北朝時代、日向国で勢力を広げた。

義祐は、第7代当主尹祐の次男。兄である第8代当主祐充が早逝すると、お家騒動が起こった。混乱が収束すると、弟の祐吉が第9代当主となったが、程なく病死し、義祐が家督を継ぐことになった。25歳のときである。

日向国南部の飫肥(現宮崎県日南市)を領する島津氏と攻防を繰り返すが、58歳のときに飫肥を領すると、日向国内に48城を築き(伊東四十八城)、伊東氏の最盛期を迎えた。日向国内を安定させたことによる安堵からか、徐々に京風文化に耽溺するようになり、本拠の佐土原(現宮崎県宮崎市)は九州の小京都と呼ばれるようになった。

しかし、肥沃な日向国を巡って島津氏を中心とした諸勢力が侵攻し、61歳のときに大敗を喫すると、伊東氏の勢力は衰えていく。日向国を追われた義祐一族は、大友氏を頼り、大友氏没落後は、一族や家臣の縁を頼って伊予国(現愛媛県)、播磨国(現兵庫県)を流浪した。そこで、豊臣秀吉に仕えていた一族の縁により、三男祐兵が秀吉に仕官が叶った。
義祐は、中国地方を放浪し、最後は堺にいる祐兵宅で病没した。享年73歳。

祐兵は関ヶ原の戦いの際に、家康へよしみを通じ、日向国飫肥藩(現宮崎県日南市)の旧領の一部を領することが赦された。その後、伊東氏は代々飫肥藩主として続き、明治維新を迎え、子爵に列せられた。

義祐はキリシタンではなかったが、その外孫(同族伊東氏に嫁した娘の子)の伊東マンショは、天正遣欧少年使節として、渡欧した。


■伊東義祐(いとうよしすけ)ゆかりの地

墓所 ・伊東家累代墓地-宮崎県日南市
銅像 (義祐孫の伊東マンショ)
・遊歩公園-大分県大分市
・森林公園-長崎県大村市


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point-2島津義弘(しまづよしひろ)

戦国武将:島津義弘(しまづよしひろ)島津義弘 天文4年-元和5年(1535-1619):鹿児島県

島津義弘(しまづよしひろ)は、薩摩国(現鹿児島県)の戦国大名。島津氏は、渡来系氏族秦氏の後裔惟宗氏が、平安貴族藤原氏近衛流の代官として、九州に下り、その後、源頼朝によって正式に地頭職に任ぜられたことから、土着して勢力を広げた一族である。

義弘は、第15代当主貴久の次男として生まれた。義弘32歳のとき、父貴久が隠居して長兄義久が家督を継ぐと、弟たち(歳久・家久)たちと協力して、兄を補佐し、島津氏の勢力拡大に尽力した。豊臣秀吉による九州征討軍に対して奮戦したが、兵力が及ばず、敗北。兄義久は降伏したものの、義弘は徹底抗戦を唱え、義久の必死の説得によって、15歳の息子久保を人質に出し、降伏した。53歳。

秀吉が死去すると、在国の義久は親豊臣、大坂にいた義弘はほぼ中立、という異なった立場にあったが、正規の島津軍を動かす権限のない義弘は、自身の手勢をもって東軍に加担した。そして、徳川家康から要請を受けて伏見城に籠城する鳥居元忠のもとへ馳せたが、元忠から「援軍の要請はしていない」と入城を拒否され、義弘は当初の意志を翻して西軍に参じた。しかし、石田三成らは、寡勢の義弘軍を軽視したため、戦意を喪失。西軍が敗走をはじめると義弘軍は孤立し、義弘は切腹しようとしたが、従軍していた甥の豊久(義弘の末弟家久の息子)に説得され、決死の強行突破を試みる。このとき義弘軍が取った戦法が「捨て奸」(すてがまり。座禅陣とも)で、数名ずつが死ぬまで敵を足止めし、それが全滅すると次の足止め隊を置いていくものである。この退却戦で、甥の豊久をはじめ家老ら多くの将兵が犠牲となり、薩摩へ生還できたのは、300人からわずかに80数人だったという(日本の合戦史上有数の退却戦。島津の退き口)。

薩摩に帰国した義弘は、軍備を図る一方で家康との和平交渉に尽力した。「関ヶ原での行動は義弘個人のもので、義久や島津氏とは無関係」という論法で片をつけ、島津氏の本領安堵と家督相続(義久に男子がなかったため、義弘の存命の三男忠恒)を認められた。享年85歳。義弘を第17代当主とする説もあるが、関ヶ原の戦いにおいて島津本軍を動かす権限の無かったことから、家督は継いでいない、との味方も根強い。


■島津義弘(しまづよしひろ)ゆかりの地

墓所 ・福昌寺-鹿児島県鹿児島市
肖像画 ・尚古集成館蔵-鹿児島県鹿児島市
銅像 ・伊集院駅前-鹿児島県日置市
神社 ・徳重神社-鹿児島県日置市
祭神名:島津義弘公
・精矛神社-鹿児島県姶良市
祭神名:島津義弘公


point-3加藤清正(かとうきよまさ)

戦国武将:加藤清正(かとうきよまさ)加藤清正 永禄5年-慶長16年(1562-1611):熊本県

加藤清正(かとうきよまさ)は、尾張国(現愛知県)出身の戦国大名。肥後国熊本藩(現熊本県)初代藩主である。加藤氏は、尾張の鍛冶屋だったが、清正の母が、豊臣秀吉の生母大政所の従姉妹だった縁から、12歳のときに、秀吉に出仕して小姓となった。

秀吉の遠戚として期待され、また清正もその期待に足る器量の持ち主だったことから、次々と戦功を挙げ、本能寺の変後の山崎の戦い、翌年の賤ヶ岳の戦いで活躍(賤ヶ岳の七本槍)すると、22歳で所領を与えられた。

25歳のとき、秀吉の九州征討に従軍し、肥後国北部19万5千石を与えられ、熊本城主となった。朝鮮出兵へも従軍し、通算5年ばかりを朝鮮で過ごした(文禄・慶長の役)。

秀吉の死後、徳川家康ともよしみを通じ、継室に家康の養女を迎えた。関ヶ原の戦いでは東軍につき、九州で活躍した。その功で、肥後国南部も与えられ、肥後一国52万石の大名となった。享年50歳。

清正の家督は三男忠広が継いだが、清正の死後22年で改易され、忠広は1万石を与えられて、出羽国庄内藩(現山形県鶴岡市)の酒井氏預かりとなった。改易の理由はさまざまに言われているが、やはり豊臣氏恩顧の最有力大名だったことを警戒されたから、と考えられている。

加藤清正は、知勇に優れた人物として、現代も「清正公」として尊崇を集めている。熊本城の入り口には、加藤氏の後に肥後国に入り、現代も活躍する細川氏(熊本県知事から第18代内閣総理大臣となった細川護煕はその直系)の家紋と、加藤氏の家紋が並べて掲げられている。また、朝鮮から帰国の際に、セロリを持ち帰った。セロリを「清正人参」とも呼ぶ。


■加藤清正(かとうきよまさ)ゆかりの地

墓所 ・本妙寺-熊本県熊本市
・天澤寺-山形県鶴岡市
・覚林寺-東京都港区
・池上本門寺-東京都大田区
肖像画 ・本妙寺蔵-熊本県熊本市
銅像 ・熊本城-熊本県熊本市
・本妙寺-熊本県熊本市
・名古屋城-愛知県名古屋市
・妙行寺-愛知県名古屋市
神社 ・加藤神社-熊本県熊本市
祭神名:加藤清正公


point-4有馬晴信(ありまはるのぶ)

戦国武将:有馬晴信(ありまはるのぶ)有馬晴信 永禄10年-慶長17年(1567-1612):長崎県

有馬晴信(ありまはるのぶ)は、肥前国(現佐賀県と長崎県の一部)の戦国武将で、肥前国日野江城主(現長崎県南島原市)。有馬氏は、出自は不明だが、15世紀に有馬晴純が出て、島原半島一帯を中心に勢力を広げた一族。

有馬義貞の次男として生まれたが、4歳のときに兄義純が早逝したため、家督を継いだ。この頃、有馬氏は、龍造寺隆信の圧力を受けていたが、18歳のときに、島津義久と連合して龍造寺氏を滅ぼす(沖田畷の戦い)と勢力を伸ばした。その後、21歳のときに豊臣秀吉が九州に侵攻してくると、島津氏から離れ、豊臣軍下に加わった。

当初、キリシタンを迫害していた晴信だったが、14歳のときに洗礼を受けたとの説がある。洗礼名をドン・プロタジオ(後にドン・ジョアンと改名したという)。その後、熱心なクリスチャンとなり、16歳のときには、天正遣欧少年使節で、従弟の千々石ミゲルを送った。その後、秀吉の朝鮮出兵では、同じキリシタン大名の小西行長軍に属し、7年間を朝鮮半島で過ごした(文禄・慶長の役)。

秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは在国のまま西軍についたが、戦況不利とみると東軍へ寝返り、所領を安堵された。その後、晴信の朱印船に事件があり、その解決によって徳川家康から、今は鍋島氏が領する有馬氏の旧領を安堵されるかも知れない、と持ちかけられた。これが家康に知られ、口利き料を受け取った岡本大八は火あぶり、晴信は贈賄の罪で甲斐国初鹿野(現山梨県甲州市)に追放され、死罪となった。享年46歳。

晴信の罪とは無関係とされた嫡子直純はお咎め無しで、晴信の所領を継いで肥前国日野江(島原)藩主(現長崎県島原市)となった。その後、日向国延岡藩(現宮崎県宮崎市)、越後国糸魚川藩(現新潟県糸魚川市)、越前国丸岡藩(現福井県坂井市)と転封しつつ明治維新を迎え、子爵に列せられた。


■有馬晴信(ありまはるのぶ)ゆかりの地

墓所 ・諦居跡-山梨県甲州市
銅像 (晴信従弟の千々石ミゲル)
・森園公園-長崎県大村市


point-5龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)

戦国武将:龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)龍造寺隆信 享禄2年-天正12年(1529-1584):佐賀県

龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)は、肥前国(現佐賀県と長崎県の一部)の戦国大名。隆信は、大友氏、島津氏、有馬氏などと並ぶ龍造寺氏最盛期を築き、「肥前の熊」と呼ばれた。龍造寺氏は、平安時代の貴族藤原道隆の後裔を称するが不明。肥前東部から勢力を伸ばした在地豪族である。

隆信は、肥前国水ヶ江城主(現佐賀県佐賀市)龍造寺周家の長男として生まれた。17歳のとき、祖父家純と父周家が、龍造寺氏の主君である少弐氏への謀反の疑いをかけられ誅殺されると、隆信は逃れ、家督を継いだ。20歳のとき、本家の龍造寺氏の当主が死去すると、その未亡人を娶り、本家の方の家督も継いだ。これに不満を持つ家臣も多く、隆信は、当時中国地方から九州にかけて影響力を持っていた大内義隆に恭順し、その後ろ盾を得て、不満を抑えた。その後、義隆が倒れると、家臣に肥前を追われたが、25歳のとき、再び肥前を奪還した。

31歳のとき、かつての主家少弐氏を滅ぼしたのを皮切りに、肥前国内の諸豪族を平定し、34歳のときには東肥前の掌中にした。隆信の急進撃に、諸大名は恐れをなしたが、実力行使を繰り返し、40歳の時には、肥前統一を果した。しかし、島津家久・有馬晴信連合軍に大敗し、討ち取られた(沖田畷の戦い)。享年56歳。この大敗は、龍造寺氏の没落を決定づけ、その後、龍造寺氏の遺領は、家臣の鍋島氏に引き継がれた。


■龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)ゆかりの地

墓所 ・高伝寺-佐賀県佐賀市
肖像画 ・佐賀県立博物館蔵-佐賀県佐賀市
石像 ・燈堂-佐賀県佐賀郡川副町
神社 ・松原神社-佐賀県佐賀市
祭神名:龍造寺隆信公


point-6大友宗麟(おおともそうりん)

戦国武将:大友義鎮・大友宗麟(おおともよししげ・そうりん)大友宗麟 享禄3年-天正15年(1530-1587):大分県

大友宗麟(おおともそうりん)は、豊後国(現大分県)の戦国大名で、大友氏第21代当主。本名は義鎮(よししげ)。宗麟は法名である。大友氏は、平安中期の武将である藤原秀郷流を称するが不明。鎌倉時代には鎌倉幕府御家人衆として勢力をもっていた九州の名族である。

宗麟は、第20代当主義鑑の嫡男として生まれた。父義鑑はかねがね宗麟の異母弟に家督を譲ろうと画策していた。宗麟21歳のとき、廃嫡の動きがあり、それを逆手にとって宗麟を擁する家臣たちは、義鑑と異母弟を排し、宗麟は家督を継いだ。

大内義隆が家臣の陶晴賢に討たれると、晴賢の要請もあり弟晴英を大内氏の新当主とする。しかし、毛利氏が大内氏・尼子氏を滅ぼすと、北九州に触手を伸ばしはじめた。宗麟は、毛利氏侵攻に加え、肥前国(現佐賀県と長崎県の一部)の龍造寺氏、薩摩国(現鹿児島県)の島津氏の侵攻もあり、毛利氏を安芸まで追いやることは出来たが、九州国内で領土を侵食され、とうとう、島津家久によって豊後国内を占領されてしまった。しかし、その本城である臼杵城(現大分県臼杵市)は死守した。57歳のときである。その後、豊臣秀吉軍の九州侵攻によって、島津軍は勢力を弱め、島津義久の降伏をみる一歩手前で病に倒れた。享年58歳。

家督を継いだ宗麟の長男義統は、秀吉に豊後一国を安堵したが、朝鮮出兵の失態を責められ、改易された。その後、大友氏は、徳川幕府で高家として存続した。

宗麟は、キリシタン大名として知られている。22歳のとき、豊後へ布教にやってきたイエズス会の宣教師、フランシスコ・ザビエルと出会っており、その27年後、49歳のときに洗礼を受けた。洗礼名は、ドン・フランシスコ。53歳のときには、天正遣欧少年使節では、宗麟の縁者の伊東マンショが出た。宗麟は、熱心なクリスチャンで、教義である「汝、殺すなかれ」と、武将としての立場を悩むこともあったようである。


■大友義鎮・大友宗麟(おおともよししげ・そうりん)ゆかりの地

墓所 ・大友宗麟墓地公園-大分県津久見市
・長泉寺(位牌)-大分県津久見市
・瑞峯院-京都府京都市
肖像画 ・瑞峯院蔵-京都府京都市
銅像 ・津久見駅前-大分県津久見市
・大分駅前-大分県大分市
・神宮寺浦南蛮貿易場跡-大分県大分市


point-7立花宗茂(たちばなむねしげ)

戦国武将:立花宗茂(たちばなむねしげ)立花宗茂 永禄10年-寛永19年(1567-1643):福岡県

立花宗茂(たちばなむねしげ)は、筑前国(現福岡県)の戦国大名。豊後国(現大分県)の有力大名大友氏の傍流で家臣の家柄である高橋氏の出身。高橋鎮種の長男として誕生したが、その器量を見込まれて、嗣子の無い立花道雪(戸次鑑連)の養子に望まれた。高橋氏にとっては嫡男であったため、辞退したが容れられず、宗茂は立花氏となった。立花氏も高橋氏と同じく大友氏の傍流で家臣の家柄だった。道雪には一人娘誾千代がおり、当時でも珍しいことであったが、主家である大友氏の赦しを得て、家督を娘である誾千代に譲っている。そして、誾千代と宗茂を婚姻させた後、家督を宗茂に譲ったのである。

豊臣秀吉の九州征討では、大友氏下で活躍し、その功を認めた秀吉から筑後国柳川藩(現福岡県柳川市)13万2千石を与えられ、大友氏から独立した直臣大名として認められた。秀吉は宗茂を「忠義も武勇も九州随一である」と評したという。

秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは、徳川家康から多大な恩賞とともに東軍へつくように要請されたが、宗茂は秀吉に恩義を感じて西軍に留まった。東軍の猛攻に遭い、柳川城は開城、宗茂は改易され、浪人となった。34歳のときである。宗茂の器量を惜しんだ加藤清正や前田利長から召し抱えの話もあったが固辞したものの、家康からの度重なる誘いは断りきれず、陸奥国棚倉(現福島県東白川郡棚倉町)1万石の知行を与えられた。大坂の陣のとき、宗茂が再び豊臣方に与するのを恐れた家康は、宗茂を側に置いていた。そして54歳のとき、旧領の筑後国柳川藩10万9200石に加増転封された。宗茂は、改易から旧領に返り咲いた唯一の武将である。その後、家督を養子の忠茂に譲った後、江戸屋敷で死去した。享年76歳。


■立花宗茂(たちばなむねしげ)ゆかりの地

墓所 ・広徳寺-東京都練馬区
・福厳寺-福岡県柳川市
肖像画 ・福厳寺蔵-福岡県柳川市
神社 ・三柱神社-福岡県柳川市
祭神名:松陰霊神(立花宗茂の神号)

 

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