解説九鬼嘉隆(くきよしたか)

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戦国武将:九鬼嘉隆(くきよしたか)九鬼嘉隆 天文11年-慶長5年(1542-1600):三重県

九鬼嘉隆(くきよしたか)は、志摩国(現三重県志摩半島)の戦国武将で水軍大将。九鬼氏第8代当主。「海賊大名」の異名をとる。九鬼氏の出自は、熊野本宮大社に仕えた一族から派したとも、京都の下級貴族が伊勢国(現三重県の大部分)へ移住して発展したものとも言われているが、詳細は不明である。10歳のとき、父である波切城主(現三重県志摩市)定隆が死去すると、兄浄隆が家督を継いだが、ほどなく戦死したため、嘉隆は浄隆の嫡男澄隆を補佐した。この頃、滝川一益の仲介で織田信長に仕えたという。

28歳のとき、伊勢に侵攻した信長軍の一員として、水軍を率いて活躍し、正式に織田氏の家臣団として認められた。伊勢を中心に戦功を重ねた嘉隆は、42歳のときに信長より九鬼氏の家督を継ぐように取り計らってもらい、志摩国の領有を認められた。

関ヶ原の戦いが起こると、嘉隆は西軍に、嫡男守隆は東軍に与した。家名を残すための嘉隆の計らいだったという。守隆は家康へ父嘉隆の助命を嘆願し、容れられたものの、行き違いがあり自害した。享年59歳。

その後の九鬼氏は、嘉隆の思惑どおり家名を繋ぎ、その子孫は摂津国三田藩主(現兵庫県三田市)、丹波国綾部藩主(現京都府綾部市)として明治維新を迎え、その子孫は子爵に列せられた。


■九鬼嘉隆(くきよしたか)ゆかりの地

墓所 ・常安寺-三重県鳥羽市
・首塚・胴塚-答志島(三重県鳥羽市)
肖像画 ・常安寺蔵-三重県鳥羽市

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