解説小早川秀秋(こばやかわひであき)

  • Yahoo!ブックマークに登録する
  • はてなブックマークに登録する
  • livedoorクリップに登録する
  • FC2ブックマークに登録する
  • Buzzurlブックマークに登録する
  • del.icio.usブックマークに登録する
  • ニフティクリップに登録する
戦国武将:小早川秀秋(こばやかわひであき)小早川秀秋 天正10年-慶長7年(1582-1602):岡山県

小早川秀秋(こばやかわひであき)は、戦国武将で備前国岡山城主(現岡山県岡山市)。豊臣秀吉の正室高台院(ねね)の兄である木下家定の五男として誕生した。4歳のとき、義叔父である秀吉の養子となった後、13歳のときに、秀吉の命で、嗣子の無かった小早川隆景の養子となった。隆景は弟秀包を養子としていたが、廃嫡され、別家を興すことになった。この頃の小早川氏は、隆景が毛利元就の三男であったため、同じく二男である吉川元春と毛利両川として毛利氏を支える中国地方の雄であった。

関ヶ原の戦いでは西軍についたが、東軍に寝返ったことにより、西軍の大敗を決定づけた。その後、備前・美作両国(現岡山県東部)を領する岡山藩55万石に加増転封された。この岡山藩は、秀秋の裏切りに激昂した宇喜多秀家の領していた藩である。その後、藩内の整備に力を注いだが、関ヶ原の戦いからわずかに2年後、病死した。享年21歳。秀秋の死後、継嗣がなかったため、小早川氏は改易された。

関ヶ原の戦いでの行動により、小早川秀秋は、裏切り者の代名詞のようになっている。その早逝も、秀秋の裏切りにより小早川軍に攻められ自害に追い込まれた大谷吉継の呪い(もしくはそう思い込んだ秀秋の心労)によるもの、との説もある。

秀秋の行動だが、開戦当初から秀秋は西軍を離反することを決めていたという。東軍の黒田長政(黒田如水の長男)と浅野幸長の連名で「北政所(高台院)様のために動いている」という内容の書状が現存していることから、高台院の甥にあたる秀秋には選択肢が無かったのかも知れない。ただ裏切り行動というものは、後味の悪いもので、それが秀秋の評価に影を落としていることは否めない。


■ゆかりの地

墓所 ・瑞雲寺-岡山県岡山市
肖像画 ・高台寺蔵-京都府京都市

スポンサードリンク

関連記事


TOPPAGE  TOP