ポイント解説近畿地方

point-1浅野幸長(あさのよしなが)

戦国武将:浅野幸長(あさのよしなが)浅野幸長 天正4年-慶長18年(1576-1613):和歌山県

浅野幸長(あさのよしなが)は、戦国武将で江戸幕府の大名。紀伊国和歌山藩(紀州藩)の初代藩主。浅野氏は、清和源氏土岐氏の諸流で、美濃国土岐郡浅野で浅野氏を名乗ったことに始まる。

幸長は、豊臣秀吉に仕える浅野長政の長男として誕生した。秀吉の正室おねの義甥(おねは、幸長の母ややの父である義勝の養女)である。秀吉や前田利家に目を懸けられ、豊臣政権下では五奉行のひとりに就任しており、利家の五女と婚約した(婚姻成立の前に女が早世)。

秀吉没後は、加藤清正・福島正則等とともに石田三成と対立し、関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍に属した。25歳のときである。戦後、紀伊国和歌山37万6千石を与えられた。享年38歳。幸長には男子が無かったので、家督は弟の長晟が継ぎ、その後、安芸国広島藩42万6千石に加増転封され、明治維新を迎え、侯爵に列せられた。赤穂浪士で有名な播磨国(現兵庫県)赤穂浅野氏は分家である。

歴戦を潜り抜けた勇将であった幸長は、大国を与えられたことからもわかるように、その存在は一目置かれていた。家康の天下を認めながらも終生にわたり豊臣氏に忠誠を誓っていたため、家康側にとっては煙たい存在だったかも知れない。早逝に、家康暗殺説も浮上しているが、梅毒とも考えられている。いずれにしても幸長の死の翌年に家康が大坂冬の陣を起こしたことを考えれば、その存在の大きさが知れるだろう。


■浅野幸長(あさのよしなが)ゆかりの地

墓所 ・大泉寺-和歌山県和歌山市
・高野山悉地院-和歌山県伊都郡高野町
肖像画 ・東京大学史料編纂所蔵-東京都文京区


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point-2荒木村重(あらきむらしげ)

戦国武将:荒木村重(あらきむらしげ)荒木村重 天文4年-天正14年(1535-1586):兵庫県

荒木村重(あらきむらしげ)は、戦国大名で摂津国伊丹城主(現兵庫県伊丹市)。荒木氏は、平安時代中期の武将藤原秀郷の後裔を称する。摂津国池田城主(現大阪府池田市)である摂津池田氏に仕える家系だった。

はじめ池田氏に仕え、一族から妻を娶った村重だったが、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と同調し、池田氏を掌握した。その後、織田信長に目を懸けられ、39歳で摂津国茨木城主(現大阪府茨木市)、翌年40歳のときには摂津一国を任され、伊丹城(有岡城)主となった。

44歳のとき、突如、信長に対して決起した。一度は明智光秀などの糾問の使者に説得され、釈明のために信長の居城である安土城(現滋賀県近江八幡市)へ向ったが、家臣の中川清秀に懸念を示され、伊丹へ戻った。豊臣秀吉も使者を派遣し、再び翻意を促したが、聞かず、有岡城に篭城して、1年間抗戦した。翌年45歳のとき、村重は単身で有岡城を脱出して尼崎城(現兵庫県尼崎市)へ、さらに花隈城(現兵庫県神戸市)へ移り、毛利氏に亡命した。同年、落城した際に有岡城に残された女房衆122人が尼崎で惨殺され、京都に護送された村重一族と重臣家族36人は市中を引き回され六条河原で斬首された。信長は難を避けていた領民を発見すると殺害し、村重を追い詰めていった。村重の重臣を匿ったとして高野山金剛峰寺(現和歌山県伊都郡)の僧数百人をも虐殺した。

しかし、信長自身が本能寺の変で倒れると、村重は堺(現大阪府堺市)に戻り、豊臣秀吉のもとで茶人として生きた。享年52歳。

信長に重用された村重がなぜ謀反に至ったのか、また一族郎党を見捨てて、なぜ単身逃亡したのか、その行動には謎が多いが、これも人間の性のひとつなのかも知れない。


■荒木村重(あらきむらしげ)ゆかりの地

墓所 ・南宗寺-大阪府堺市
・荒村寺-兵庫県伊丹市
肖像画 ・大阪府伊丹市立博物館蔵


point-3顕如(けんにょ)

戦国武将:顕如(けんにょ)顕如 天文12年-文禄元年(1543-1592):大阪府

顕如(けんにょ)は、浄土真宗の僧で本願寺第11世。第10世証如の長子として誕生した。この頃、本願寺教団は、一向一揆といわれる門徒による武力闘争は一大勢力であり、諸大名も無視できないものであった。また、幕府の有力大名や公家衆とも縁戚関係を持ち、大名に匹敵する権力を有していた。

天下統一を目論む織田信長にとって、本願寺は脅威であり、圧力をかけるようになった。28歳のとき、顕如率いる本願寺は織田氏と交戦状態に入った。しかし、次々と有力大名を滅ぼす信長に脅威と長引く戦闘状態に疲弊した顕如は、停戦した。和睦の条件として、本拠地であった石山本願寺(現大阪府大阪市)を去り、紀伊国鷺森別院(現和歌山県和歌山市)へ移った。顕如38歳のときのことである。

本能寺の変後、秀吉によって摂津への帰国を赦され、以前の寺領の近くに天満本願寺を建立した。石山本願寺の跡地には大坂城が建てられた。その後、京都に本願寺教団を再興し、50歳にて寂した。

顕如寂後、強硬派であった長男教如に代わり、三男の准如が第12世宗主となった。教如とその支持勢力は独立して東本願寺を建立するに至り、本願寺は西本願寺と呼ばれ、分裂し、現在に至る。


■顕如(けんにょ)ゆかりの地

墓所 ・本願寺大谷本廟-京都府京都市
肖像画 ・願泉寺(貝塚御坊)-大阪府貝塚市
・長福寺蔵-茨城県筑西市
・光徳寺蔵-岩手県花巻市


point-4明智光秀(あけちみつひで)

戦国武将:明智光秀(あけちみつひで)明智光秀 享禄元年?-天正10年(1528?-1582):滋賀県

明智光秀(あけちみつひで)は、戦国大名で近江国坂本城主(現滋賀県大津市)。明智氏は、清和源氏土岐氏の支流。

前半生の経歴が不明で、生年にも諸説ある。通説では、美濃で斎藤道三に仕えていた。19歳のとき、道三と息子義龍の争いで道三側に付き、義龍に攻められ一族離散したという。また、室町幕府第13代将軍義輝に仕えていた、という説もある。

確実に光秀の動向がわかるのは40歳頃からで、豊臣秀吉とともに織田信長下で京都で政務にあたっていた。第15代将軍義昭に仕えていたが、信長と不仲になると、信長の直臣となった。44歳のとき、近江に5万石を与えられ、坂本城を築城した。

55歳のとき、本能寺(現京都府京都市)に滞在していた信長を襲い倒した。三成は即座に京都を押さえたが、恭順する武将に恵まれず、豊臣秀吉に討たれた。享年55歳。

主君である信長を討ったとして、本能寺の変を起こしたことで、光秀の評価は当時から悪い。一方、原因が明らかでないことが多く、光秀の心情に興味を持たれていることも確かである。「心しらぬ人は 何とも言わば言え 身をも惜しまじ 名をも惜しまじ」との辞世を残している。その行動の理由は本人にしかわからない。しかし、この辞世に何か想像を掻き立てられるのも興味深い。


■明智光秀(あけちみつひで)ゆかりの地

墓所 ・谷性寺(首塚)-京都府亀岡市
・西教寺-滋賀県大津市
・高野山奥の院-和歌山県伊都郡高野町
・首塚-京都府京都市
・明智藪(胴塚)-京都府京都市
・明智神社-福井県福井市
肖像画 ・本徳寺-大阪府岸和田市
石像 ・坂本城址-滋賀県大津市
神社 ・明智神社(祭神名:明智光秀公)-福井県福井市
・御霊神社(祭神名:明智光秀公)-京都府福知山市


point-5足利義昭・足利義輝・足利義栄

戦国武将:足利義昭(あしかがよしあき)足利義昭 天文6年-慶長2年(1537-1597):京都府

足利義昭(あしかがよしあき)は、室町幕府第15代将軍。第13代将軍義輝の同母弟。次男だったため、幼少の頃から僧籍に入り、興福寺で権少僧都という高位に就いていた。義輝や同じく僧籍に入っていた弟が暗殺されるなか、義昭は逃れ還俗した。室町幕府の有力な大名だった若狭国(現福井県)の武田氏や越前国(現福井県)の朝倉氏を頼り、上洛の機会をうかがっていたが、朝倉氏の家臣だった明智光秀を介して織田信長と出会い、尾張国(現愛知県)へ下った。信長の援助で上洛を果した義昭は、義輝も御所としていた邸宅を整備させ、念願であった室町幕府が完全に再興させた。信長にとっては上洛の大義名分に過ぎなかった義昭は邪魔な存在となり、京都を追放し、足利将軍家の領有する御料所を信長は自領とした。ここに室町幕府は滅亡した。37歳のときである。信長の死後、秀吉に保護された義昭は52歳のとき将軍職を返上し、出家した。その後、秀吉に1万石の領地を与えられ、秀吉のもとで優雅にその後半生を送った。享年61歳。


■足利義昭(あしかがよしあき)ゆかりの地

墓所 ・等持院-京都府京都市
肖像画 ・東京大学史料編纂所蔵-東京都文京区
木像 ・等持院霊光院殿蔵-京都府京都市



足利義輝 天文5年-永禄8年(1536-1565):京都府

足利義輝(あしかがよしてる)は、室町幕府第13代将軍。第12代将軍義晴の嫡男として誕生し、11歳で父から将軍職を譲られた。この頃の幕府は、将軍に昔日の権威は無く、父義晴は管領細川晴元と対立し、京都に居ることはできなかった。義輝も将軍就任の儀式を近江国坂本(現滋賀県大津市)の日吉神社で行なった。程なくして晴元の家臣である三好長慶が台頭し、畿内一円に大勢力を築いた。義輝は再び京都を追われ、近江へ逃亡した。義輝は幕府権力と将軍権威の回復を目指し、諸国大名との関係に尽力した。最大の敵対勢力であった長慶は死去したものの、徐々に将軍として認められた義輝を疎ましく思った長慶遺児を擁する三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀に暗殺された。享年30歳。


■足利義輝(あしかがよしてる)ゆかりの地

墓所 ・俊龍寺-山口県山口市
肖像画 ・国立歴史民俗博物館蔵-千葉県佐倉市
・京都市立芸術大学芸術資料館蔵-京都府京都市
木像 ・等持院霊光院殿蔵-京都府京都市



足利義栄 天文7年-永禄11年(1538-1568):京都府
足利義栄(あしかがよしひで)は、室町幕府第14代将軍。第11代将軍義澄の孫。義輝暗殺の後、三好三人衆と松永久秀によって擁立された。しかし、混乱のため一度も入京を果せず、織田信長が義輝の弟である義昭を奉じて上洛したため、生地である阿波国(現徳島県)に逃れた。その直後、持病の腫瘍が悪化して病死した。享年31歳。


■足利義栄(あしかがよしひで)ゆかりの地

墓所 ・西光寺-徳島県阿南市
肖像画 ・個人蔵


point-6松永久秀(まつながひさひで)

戦国武将:松永久秀(まつながひさひで)松永久秀 永正7年-天正5年(1510-1577):奈良県

松永久秀(まつながひさひで)は、大和国(現奈良県)を領した戦国大名。通称松永弾正(まつながだんじょう)。松永氏は本姓を源氏とも藤原氏とも称するが、久秀以前は不明である。近年の研究では石清水八幡宮付近(現京都府八幡市)の出自と考えられている。

その前半生は不明だが、30歳の頃、三好長慶に仕官したという。長慶が室町幕府の実権を握ると、久秀も頭角を現した。43歳のときに、長慶は畿内を平定し、久秀も摂津国滝山城主(現兵庫県神戸市)、続いて大和国信貴山城主(現奈良県生駒郡)となった。54歳のときに長慶が死去すると、三好氏の近臣である三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)とともに幼君三好義継に忠誠を尽くした。しかし、徐々に畿内の主導権をめぐって三好三人衆と対立するようにったが、主君義継に頼られたことから久秀は有利に転じ、畿内の主導権を得るに至った。この争いのときに、三好三人衆は東大寺に陣を置いたので、松永軍は東大寺を攻めることになり、久秀は大仏殿に火をかけた悪名を残してしまった。
フロイスによると、この出火の実際は、三好方によるものではないか、と記述されている。

59歳のとき、信長が上洛するといち早く恭順の意を表した。室町幕府第15代将軍の直臣となると、「大和一国は切り取り次第」とのお墨付きを得、徐々に大和を平定していった。しかし、上杉謙信・毛利輝元など反信長勢力に呼応すると、理由を問いただす信長からの使者にも会わず、信貴山城を包囲され、自爆した。享年68歳。嫡男久通も自害し、戦国大名松永氏は滅亡した。

久秀の生涯は、その謎めいた前半生から室町幕府第13代将軍足利義輝の暗殺、東大寺大仏殿焼失への関与など、下剋上を体現したまさに戦国大名の見本のようであった。同様な経歴を持つ斎藤道三とも「乱世の梟雄」として並び称されている。武勇に長け豪胆な性格だったという。なぜ、信長に反旗を翻したのか、その心根はわからないが、使者に会おうとしないその断固とした姿は、並々ならぬ想いがあったことが想像できよう。


■松永久秀(まつながひさひで)ゆかりの地

墓所 ・達磨寺-奈良県北葛城郡王子町

・妙恵会墓地-京都府京都市


point-7筒井順慶(つついじゅんけい)

戦国武将:筒井順慶(つついじゅんけい)筒井順慶 天文18年-天正12年(1549-1584):奈良県

筒井順慶(つついじゅんけい)は、戦国大名で大和国筒井城主・郡山城主(現奈良県大和郡山市)。本名は藤勝(ふじかつ)。順慶は法名である。筒井氏は、大神神社(現奈良県桜井市)の神官の家系だった。

順慶が2歳のとき、父順昭の死去で家督を継ぎ、叔父順政の後見を受けた。15歳で順政も失うと、大和で隆盛を極めていた松永久秀によって筒井城を追われた。

筒井城奪還に賭ける順慶は、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と結び、松永軍に反撃を開始した。17歳のときである。見事筒井城を奪還した順慶は、春日社に参拝し、その後出家して順慶を名乗った。

22歳のとき、明智光秀・佐久間信盛を介して織田信長に恭順し、大和の所領を守ることを図った。そして、27歳のとき、信長によって大和国守護に任ぜられ、また、久秀が信長に反旗を翻した際には、久秀の居城である信貴山城攻略の先鋒を務めた。松永氏滅亡により、大和は平定された。

信長の死後は、豊臣秀吉に仕えたが、胃痛を訴え、36歳の若さで急逝した。子の無かった順慶の跡は従弟にあたる定次が継いだ。定次はあまり評判の良くない武将で、秀吉によって大和国44万石から伊賀国(現三重県)10万石に転封された。この秀吉の所業を恨んだ定次は、関ヶ原の戦いでは東軍につき所領を安堵されたものの、突然幕命により改易され、大坂方に通じた疑いで自害を命ぜられた。筒井氏の嫡流は絶えたものの、傍流は旗本などになり、現在まで続いている。

親交のあった明智光秀が、本能寺の変後、順慶の加勢を期待したが、結局順慶は中立を保った。この故事から日和見することをその地名にちなみ「洞ヶ峠を決め込む」というが、順慶は三成に派兵するつもりは無く、戦場まで赴いていないので、この伝承は順慶にとっては不本意なものである。幼い頃から苦労し、10代後半で自城を奪還するに至った武勇や知略は特筆するものがあろう。順慶がもう少し長生きであれば、筒井氏はまた違う道をたどったかも知れない。


■筒井順慶(つついじゅんけい)ゆかりの地

墓所 ・筒井順慶歴史公園-奈良県大和郡山市
・高野山奥の院-和歌山県伊都郡高野町
肖像画 ・伝香寺蔵-奈良県奈良市


point-8石田三成(いしだみつなり)

戦国武将:石田三成(いしだみつなり)石田三成 永禄3年-慶長5年(1560-1600):滋賀県

石田三成(いしだみつなり)は、近江国坂田郡(現滋賀県長浜市)の戦国大名で、佐和山城主(現滋賀県彦根市)。石田氏は、坂田郡石田村に土着した地侍の家系と考えられている。

豊臣秀吉が近江長浜城主となった頃(15歳くらい)から秀吉の小姓として仕えはじめた。23歳のとき、織田信長が本能寺の変で倒れ、秀吉が次代の天下人として台頭してくると、三成もその側近としてその名を知られるようになる。柴田勝家を滅ぼした賤ヶ岳の戦いでは、敵軍の様子を伺う偵察行動を担当し、また一番槍の功があった。

秀吉が関白に就任した後、名将の誉れ高い島左近を自身の知行を半分与え召抱えたという。27歳のときである。

39歳のとき、秀吉が死去すると、徳川家康の台頭を懸念した三成は、上杉景勝・直江兼継らと家康打倒の挙兵計画を図った。これは関ヶ原の戦いに発展したが、西軍となった三成側は、総体的に戦意の低い軍が多かったことや、小早川秀秋などの翻意によって総崩れとなり、三成は家康の命によって京都六条河原にて斬首された。享年41歳。

三成は、武をもって立身するという戦国武将のイメージからは少し異なるかもしれない。関ヶ原の戦いの敗因のひとつに、三成の武将としての求心力が欠けていたことが挙げられることもあるが、三成は優秀な武将であったが、それ以上に優れた行政官僚であり、秀吉の天下統一に三成の存在は不可欠であったことは評価されるべきである。


■石田三成(いしだみつなり)ゆかりの地

墓所 ・大徳寺三玄院-京都府京都市
肖像画 ・大徳寺三玄院蔵-京都府京都市
銅像 ・石田会館(生誕地)-滋賀県長浜市
・長浜駅前-滋賀県長浜市
写真 ・(頭蓋骨より復元された顔の写真)-石田会館(生誕地)-滋賀県長浜市


point-9浅井長政(あざいながまさ)

戦国武将:浅井長政(あざいながまさ)浅井長政 天文14年-天正元年(1545-1573):滋賀県

浅井長政(あざいながまさ)は、近江国(現滋賀県北部)北部を領した戦国大名。浅井氏は、近江の在地豪族や地域の有力者である郡司クラスの家系と思われる。近江国守護京極氏の譜代家臣として、近江地方に土着していた。

長政が生まれた頃、浅井氏は京極氏と同族である六角氏に破れ、領地を失い六角氏に臣従していた。15歳で元服すると家督を継ぎ、六角氏との戦闘で勝利を得(野良田の戦い)、領地を拡大し始めた。程なくして、美濃国(現岐阜県)の斎藤氏を抑えるため、織田信長と同盟関係を結び、信長の妹市と婚姻した。

26歳のとき、信長・徳川家康連合軍が朝倉氏に侵攻し、長政は信長と同盟関係にあったものの、長い付き合いの朝倉氏に味方した。信長に攻められた長政は、その居城である小谷城(現滋賀県長浜市)で自害。享年29歳。浅井氏は滅亡した。

長政の死と共に当時10歳だった嫡男は殺害された。次男は嬰児だったため命を助けられ、出家した後、浅井氏の傍流として残った。妻市と、3人の娘(茶々・初・督)は信長の許へ下り、市は柴田勝家に再嫁、茶々は豊臣秀吉の側室として後継者秀頼の母となり、大坂城と運命を共にした。初は京極高次室となり姉の運命を見届け、督は徳川幕府第2代将軍秀忠の室となり第3代将軍家光の母となった。

長政の武勇と人となりを高く評価していた信長は、何度も降伏勧告を行なったが、長政は断固拒否したという。夫婦仲の良かった市は運命をともにしようとしたが、長政の説得を受けて、落ち延びた。長政は早逝し、浅井氏は滅亡してしまったが、長政の血脈は、第3代将軍家光や女帝である明正天皇へ伝えられた。


■浅井長政(あざいながまさ)ゆかりの地

墓所 ・徳勝寺-滋賀県長浜市
・小谷城赤尾屋敷跡(自刃の地)-滋賀県東浅井郡湖北町
肖像画 ・高野山持明院蔵-和歌山県伊都郡高野町
銅像 ・河毛駅前-滋賀県東浅井郡湖北町
・名鉄間内駅前(浅井氏宅址)-愛知県春日井市
神社 ・三姉妹神社(柴田勝家とお市の方を祭神とする柴田神社境内)-福井県福井市
祭神名:長政とお市の方の間の3人の娘(茶々、初、督)


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