解説吉川経家(きっかわつねいえ)

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戦国武将:吉川経家(きっかわつねいえ)吉川経家 天文16年-天正9年(1547-1581):鳥取県

吉川経家(きっかわつねいえ)は、中国地方の名族吉川氏の傍流である石見吉川氏出身の戦国武将。吉川経安の嫡男として生まれ、毛利氏に仕えた。

経家の名を著名にしたのは、織田信長の命による豊臣秀吉中国討伐軍との攻防である。因幡国(現鳥取県)まで侵攻した秀吉軍に恐れをなした山名豊国が鳥取城(現鳥取県鳥取市)で降伏しようとすると、豊国を追い出して、徹底抗戦を目論む家臣たちは吉川元春に支援を求めた。元春は武勇に秀でた経家に入城を命じた。このとき、経家は死を自身の首桶を持ち込んだといい、死を覚悟した入城だった。

経家は入城すると、城内の防衛を整備し、籠城の準備をはじめた。しかし、兵糧の備えは常備兵3ヶ月分しかなく、経家を驚かせた。これは秀吉の作戦で、事前に因幡国内の米を高値で買い取らせていたのである。秀吉は鳥取城を囲んだが、動かず、城内への物資運搬の道だけを断った。鳥取城は4ヶ月間も籠城したが、餓死者が出始めたことで、ついに経家は、城兵の助命を条件として降伏し、開城した。

秀吉は、経家の入城の経緯を知っていることもあり、その武勇を惜しみ、自害を思いとどまらせようと説得したが、経家は頑なに聞き入れず、業を煮やした秀吉は信長に経家の自害許可を確認した。享年35歳。

経家は自害の前に、父や4人の子等へ宛てて遺書を送った(現在も山口県岩国市の吉川史料館に伝わっている)。「君が名を仇に為さじと思ふゆえ末の世までと残し置くかな」「古の仮の庵と住みかへてもとの都にかへりこそすれ」の辞世を残した。


■吉川経家(きっかわつねいえ)ゆかりの地

墓所 ・円護寺-鳥取県鳥取市
銅像 ・鳥取城址-鳥取県鳥取市

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