ポイント解説関東地方

point-1北条氏政(ほうじょううじまさ)

戦国武将:北条氏政(ほうじょううじまさ)北条氏政 天文7年-天正18年(1538-1590):神奈川県

北条氏政(ほうじょううじまさ)は、相模(現神奈川県)を支配した戦国大名。後北条氏第4代当主。兄が夭折したため、家督を継ぐ。早雲の嫡系の曾孫にあたる。

17歳のとき、父氏康が甲斐(現山梨県)の武田信玄、駿河(現静岡県)の今川義元と甲相駿三国同盟を組んだため、信玄の娘(黄梅院)を正室に迎えた。22歳のとき、家督を譲られたが、氏政が34歳のときに父氏康が死去するまで、両頭体制が行なわれた。

黄梅院とは夫婦仲がよく、少なくとも男子5人、女子1人を儲けたが、32歳のときに、信玄は駿河侵攻を開始し、三国同盟は破綻した。これに激怒した父氏康は信玄との同盟を解消し、氏政と黄梅院を離婚させ、子供を残したまま甲斐へ送り返した。なお、傷心の故か、黄梅院は27歳の若さで亡くなったという。

今川氏は織田信長に攻められ、衰退したが、武田氏と北条氏は再び同盟関係になり、氏政も信長や徳川家康、上杉氏などと戦った。また、信長の優勢が決定的とみると、43歳のとき、信長へ臣従を申し入れるなど、高度な外交手段をみせている。この頃、嫡男氏直に家督を譲るも父氏康に倣い、両頭体制を敷き、家中の実権を引き続き掌握した。

48歳の頃には、相模・武蔵・下総・上総・上野に、常陸現茨城・下野・駿河の一部という、関東ほぼ全域を領する240万石の大大名になっていた。これが、後北条氏の最大領土である。

しかし、豊臣秀吉に疎まれ、上洛を断ったことに付け込まれた。一ヶ月に及ぶ小田原城篭城もむなしく、氏政は切腹した。享年53歳。嫡男氏直は赦免され、1万石を与えられたものの30歳で病死した。

その後、後北条氏の家督は氏直の弟氏規の家系に継がれ、河内(現大阪府)狭山藩主として幕末まで存続した。

氏政は、早雲ら代々当主のなかで、家を滅ぼし、国を失った武将として、一般的に評価が低い。しかし、後北条氏の最大領土を広げたのは氏政の手腕として評価されても良いと思われる。また、愛妻家でもあり、黄梅院との離婚を父親に勧められながら渋っていたと言われ、武田氏と同盟関係が復活した際には、分骨を受け取り、手厚く供養している。


■北条氏政(ほうじょううじまさ)ゆかりの地

墓所 ・早雲寺-神奈川県足柄下郡箱根町
肖像画 ・小田原城天守閣蔵


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point-2北条早雲(ほうじょうそううん)

戦国武将:北条早雲(ほうじょうそううん)北条早雲 永享4年または康正2年-永正16年(1432/1456-1519):神奈川県

北条早雲(ほうじょうそううん)は、戦国時代初期の武将。
本名は伊勢盛時(いせもりとき)。戦国大名となった後北条氏の祖である。後北条氏は、平氏の流れを汲む室町幕府の御家人である伊勢氏の盛時が、関東へ下向し、小田原を中心に勢力を伸ばした際に、新しい氏を名乗ったことに始まる。正確には、「北条氏」だが、鎌倉時代の執権「北条氏」とは血縁関係にないため、後世の歴史家が「後」をつけて呼ぶようになったものである。

早雲は、一介の素浪人から戦国大名にまで成りあがった下剋上の先駆者とみなされて来たが、近年の研究では、伊勢氏は室町幕府の重臣であり、早雲の成功は、まったくの無位無官からのスタートではなかったことがわかっている。また、活躍の時期が当時としては老年であることから、疑問視され、その生年を遅くみる意見もある。

早雲の関東下向は、駿河(現静岡県西部)守護である今川氏に嫁した姉(または妹)が、嫡男を産んだことによって今川氏との結びつきが強固になり、その家督争いの調停のため、駿河へ下向したことがきっかけのようである。

56歳(32歳)のとき、興国寺城(現静岡県沼津市)の所領を与えられ、駿河に留まり、今川氏の家臣として、甥である今川氏親を補佐した。また、幕府に叛いた堀越公方足利茶々丸を追い、伊豆一国を支配下に入れた。

その後、64歳(40歳)で、相模小田原(現神奈川県小田原市)の小田原城を領有し、84歳(60歳)には、相模国全域を支配するに至った。嫡男氏綱に家督を譲り、88歳(64歳)で亡くなった。相模国の中心である小田原城は、代々の後北条氏の本城となったが、早雲自身は、終生、伊豆の韮山城をその居城としていた。

早雲は、伊豆や相模全域を領有したにもかかわらず、室町幕府から正式な守護と認められてはいなかった。早雲のように、幕府のお墨付きなしに領国支配を進めたものを戦国大名と呼び、確かに彼はその嚆矢であった、といえる。


■北条早雲(ほうじょうそううん)ゆかりの地

墓所 ・金剛峰寺-和歌山県伊都郡高野町
・早雲寺-神奈川県足柄下郡箱根町
肖像画 ・小田原城天守閣蔵
銅像 ・小田原駅前-神奈川県小田原市


point-3太田道灌(おおたどうかん)

戦国武将:太田道灌(おおたどうかん)太田道灌 永享4年-文明18年(1432-1486):東京都

太田道灌(おおたどうかん)は、室町時代中期・戦国時代初期の武将。
道灌は出家後の名乗りで、本名は資長(すけなが)である。太田氏は清和源氏の流れを汲み、関東管領上杉氏に仕えた。

25歳のとき、父資清から家督を譲られた。この頃、関東は、室町幕府方と幕府の関東の出先機関である鎌倉公方(後に古河公方)方に別れ、争っていた。上杉氏は幕府方だったため、太田氏も幕府方として、鎌倉公方方との抗争が絶えなかった。

源頼朝の挙兵以来の縁を持つ、房総(現千葉県)の名族千葉氏は鎌倉公方(古河公方)方であったが、それに対抗するため、両勢力の境界である利根川下流域に築城した。これが江戸城(現東京都千代田区)である。

関東における上杉氏と古河公方の争いは、30年に及び、道灌51歳のとき、ようやく和議が成立する。その間、上杉氏を支えたのは、道灌の軍略であった。道灌は、「上杉氏が領国支配が出来るのは、自分のおかげである」と、その書状に記すほど、自負を持っていた。

その存在を疎ましく思われたのか、または道灌自身に野心があったのかは定かではないが、主君上杉定正によって暗殺された。享年55歳。

太田氏はその後、岩槻城(現埼玉県)に養子資家が入ったが、戦国時代末には衰退した。


■太田道灌(おおたどうかん)ゆかりの地

墓所 ・大慈寺-神奈川県伊勢原市
・洞昌院-神奈川県伊勢原市
肖像画 ・大慈寺蔵-神奈川県伊勢原市
銅像 ・旧東京都庁舎→東京国際フォーラム内-東京都千代田区


point-4千葉重胤(ちばしげたね)

戦国武将:千葉重胤(ちばしげたね)千葉重胤 天正4年-寛永10年(1576-1633):千葉県

千葉重胤(ちばしげたね)は、戦国時代の武将。
房総(現千葉県)の千葉氏の第31代当主。生年を天正11年(1583)とする異説もある。千葉氏は平氏の一流で、平安時代末には、下総国(現千葉県北部・茨城県の一部)を治める役人として、さらに土着していき、勢力を大きくした。源頼朝の挙兵の際には、一貫して協力し、鎌倉幕府以降、全国各地に所領を安堵され、戦国時代に入っても房総に勢力を保っていた。

しかし、10歳のときに父邦胤が家臣に暗殺されると、千葉氏の家督は、北条氏政の子息で邦胤の娘婿である千葉直重(重胤には義兄にあたる)が継ぐことになった。重胤は、母とともに北条氏の人質として小田原で過ごすことになる。15歳のとき、北条氏が滅亡すると、千葉氏もその与党と見なされ、所領を没収された。

その後、重胤は各地を放浪し、一時、徳川家康に仕え、領地を安堵されたこともあったが、どのような理由があったのか、その領地も返上し、浪人として江戸で客死したという。享年58歳。ここに、平安時代末より500年続いた名門千葉氏は、歴史の表舞台から姿を消した。その後、千葉氏の末裔は、多くは帰農し、東北地方を中心に、生活したという。


■千葉重胤(ちばしげたね)ゆかりの地

墓所 ・海隣寺-千葉県佐倉市


point-5里見義堯(さとみよしたか)

戦国武将:里見義堯(さとみよしたか)里見義堯 永正4年-天正2年(1507-1574):千葉県

里見義堯(さとみよしたか)は、安房(現千葉県南部)の戦国大名。
里見氏は、源氏の流れを汲む新田氏の庶流。室町時代後期には安房を領していたようである。江戸時代に滝沢馬琴によって書かれた伝奇小説『南総里見八犬伝』でも有名。物語のなかの里見氏当主義実は曽祖父に、八犬士を産む伏姫は大叔母(実在はしない)にあたる。

27歳のとき、父実堯が後見をしていた、里見氏当主義豊に殺害される。義堯は、北条氏綱の支援を受け、上総金谷城(現千葉県富津市)で挙兵し、家督を奪った。

家督を得るために北条氏の支援を受けた義堯でったが、上総(現千葉県中部)の真理谷氏の家督争いをめぐって、北条氏と対立した。北条氏康は、今川義元、武田信玄との間で三国同盟を締結し、その勢力をさらに増大させ、上総西部のほとんどを北条氏に奪われることになった。そのため、義堯は、上杉謙信、太田氏、佐竹氏などと同調して、北条氏に対抗する姿勢を貫いた。

54歳のとき、北条氏の侵攻に抗戦し、上杉軍の援護を受けて大勝し、さらに反攻して以前に奪われた上総西部を奪還した。その後、58歳のときには、下総まで侵攻し、北条軍を迎え撃った。一時は勝利したものの、大敗を喫し、再び上総の大半を失い、安房へ退却した。この敗戦で、里見氏の勢力は衰退したものの、61歳のとき、安房まで攻める北条軍を徹底抗戦して撃退し、とうとう北条軍を上総からも撤退させた。里見氏の最大判図を描き、久留里城(現千葉県君津市)にて死去した。享年68歳。

戦上手で、武将としての器量に優れていた義堯を失った里見氏は、その後、徐々に衰退した。北条氏討伐への遅参と、私闘を禁ずる命令(惣無事令)の違反を豊臣秀吉から咎められ、上総・下総を没収された。関ヶ原の戦いでは、徳川家康方に付き、戦功をあげて加増されたものの、義堯の孫にあたる当主義康とその弟義高は次々と改易され、里見氏は歴史の表舞台から姿を消した。


■里見義堯(さとみよしたか)ゆかりの地

墓所 ・延命寺-千葉県南房総市
聖観音立像 (加勢観音、守護仏)
・正源寺蔵-千葉県君津市


point-6太田資正(おおたすけまさ)

戦国武将:太田資正(おおたすけまさ)太田資正 大永2年-天正19年(1522-1591):埼玉県

太田資正(おおたすけまさ)は、戦国時代の武将で、武蔵岩槻城(岩付城とも。現埼玉県さいたま市岩槻区)城主。江戸城を築いた太田道灌の曾孫にあたる。

父資頼、兄資顕とともに上杉氏に仕えていたが、17歳のときに父が死去し、兄が家督を継いで後、兄資顕と不仲であったため、岩槻城を出て、舅の難波田憲重と松山城(現埼玉県東松山市付近)に住んだという。本家である兄資顕は北条氏へ従属するも、資正は変わらず上杉氏に仕え続けた。

25歳のとき、主君上杉朝定が北条氏康との戦い(河越野戦)で討死したため、上杉氏は滅亡の危機になり、資正も松山城を出た。翌年、北条氏の隙を突いて松山城を奪還、兄資顕が死去すると、岩槻城へ入り、実力で家督を継いだ。26歳のときである。しかし、家臣のうち、親北条氏の一部は北条氏に下り、また松山城を任せていた上田朝直が北条氏に寝返り、さらに北条氏に岩槻城を囲まれ、とうとう資正も北条氏に下った。

資正は、忠実に北条氏に仕え、また、氏康も名家太田氏の資正を丁重に扱い、その嫡男氏資と娘を婚姻させた。しかし、39歳のとき、上杉謙信が小田原に侵攻してくると、上杉方に寝返り、北条氏から離反するようになる。

怒った氏康は、何度も岩槻城、松山城を攻めたが、常に太田氏側に援軍が現れ、北条軍は撤退せざるを得なかった。これは、資正が軍用犬を飼いならし、書状を入れた竹筒を入れた首輪を着けた犬を放ち、味方と連絡をとっていたためという。この資正の作戦は「日本史上の軍用犬の起源」と言われており、道灌に劣らない資正の名将ぶりである。

しかし、氏康の婿となり、親北条氏であった嫡男氏資に岩槻城を追われ、常陸国(現茨城県)の佐竹義重を頼り、北条氏と戦い続けた。そして、69歳のとき、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、宿敵北条氏の最期を見届けた。しかし、故地岩槻城に再び入ることは適わず、翌年、病死した。享年70歳。その後、太田氏は北条氏の滅亡とともに衰退した。


■太田資正(おおたすけまさ)ゆかりの地

墓所 ・浄瑠璃光寺(片野城址内)-茨城県石岡市
肖像画 ・天徳寺蔵-秋田県秋田市


point-7佐竹義宣(さたけよしのぶ)

戦国武将:佐竹義宣(さたけよしのぶ)佐竹義宣 元亀元年-寛永10年(1570-1633):茨城県

佐竹義宣(さたけよしのぶ)は、出羽久保田(秋田)藩初代当主。
佐竹氏は源氏の一流で、平安時代末より常陸国(現茨城県)を領していた名族である。義宣は、20歳のとき、父義重の隠居により家督を相続した。

義宣は豊臣秀吉に良く仕え、常陸国54万石を安堵された。石田光成と親交が深く、加藤清正らによる光成襲撃事件では、宇喜多秀家・徳川家康とともに、光成救出に動き、光成が死んだら「生き甲斐が無くなる」と言ったとも言われている。

義宣31歳のときに勃発した関ヶ原の戦いでは、秀吉への恩義と光成への友情を優先しようと、家臣らの反対を押し切って西軍(大坂方)寄りへの立場を表明した。しかし、隠居した父義重は東軍(家康方)に味方すると明言し、佐竹氏としての立場が不明瞭となり、結局中立の立場を取らざるを得なかった。

しかし、この曖昧な態度を家康に咎められ、常陸水戸54万石から出羽秋田21万石への減転封を命ぜられることとなった。

時流に乗るよりも義を重んじた義宣の態度が、佐竹氏が400年以上領していた常陸国を失わせたことになる。しかし、その義理堅く律儀な人柄は、家康や二代将軍秀忠からも重んじられたという。享年64歳。

また、築城技術にも評価があり、義宣の建てた久保田城は、残念ながら明治時代に焼失したが、名城の誉れが高かったという。

佐竹氏は、代々出羽秋田藩主の地位を守り、明治に至って侯爵に列せられた。


■佐竹義宣(さたけよしのぶ)ゆかりの地

墓所 ・天徳寺-秋田県秋田市


point-8結城晴朝(ゆうきはるとも)

戦国武将:結城晴朝(ゆうきはるとも)結城晴朝 天文3年-慶長19年(1534-1614):茨城県

結城晴朝(ゆうきはるとも)は、結城氏第17代当主で戦国大名。結城氏は、下総国結城城主(現茨城県西部)で、鎌倉時代より続く名族。室町時代なかばには、将軍足利義教率いる幕府軍と争い、一時滅亡するものの、戦国大名として、復活した。

嗣子を無くした叔父政勝の死去を受け、26歳で、家督を継承した。佐竹氏、宇都宮氏、後北条氏などと攻防を繰り返したが、継嗣の無かった晴朝は、宇都宮広綱の次男朝勝を養子に迎えた。

57歳のとき、豊臣秀吉に従い、小田原攻めに参戦し、所領を安堵された。また、秀吉との結びつきを深めたかった晴朝は、朝勝を廃嫡し、徳川家康の次男で、秀吉の養子となっていた秀康に養女を嫁がせて、養嗣子として迎え、家督を譲り隠居した。

関ヶ原の戦いの後、秀康が徳川姓に復して越前へ転封となると、秀康の五男直基に家督を譲った。享年81歳。

晴朝の死により、結城氏の血脈は断絶したが、その祭祀は秀康の庶子である前橋松平家に継承された。


■結城晴朝(ゆうきはるとも)ゆかりの地

墓所 ・孝顕寺-茨城県結城市
肖像画 ・孝顕寺蔵-茨城県結城市


point-9宇都宮国綱(うつのみやくにつな)

戦国武将:宇都宮国綱(うつのみやくにつな)宇都宮国綱 永禄11年-慶長12年(1568-1608):栃木県

宇都宮国綱(うつのみやくにつな)は、宇都宮氏第22代当主で戦国大名。
宇都宮氏は、古来より下野国(現栃木県)一宮だった宇都宮二荒山神社座主・日光山別当職などを務めた下野国の名族だった。

9歳のとき、父広綱の死により家督を継承するが、後北条氏に攻められ、一時は、その居城である宇都宮城を落ちなければならない状況だった。その後、佐竹氏や結城氏の助力を得、また小田原征伐に参加し、豊臣秀吉より下野18万石を安堵された。

しかし、30歳のとき、突然、秀吉の命により改易され、備前の宇喜多秀家の預かりとなった。詳細は不明だが、継嗣問題に絡む、五奉行筆頭浅野長政の讒言による、という。 その後、秀吉より「再興を望むなら、朝鮮で戦功を挙げよ」と言われ、朝鮮に出兵し、武功を立てた。しかし、秀吉の死により、悲願の宇都宮氏再興は適わなかった。その後、諸国を流浪し、江戸浅草で病死したという。享年41歳。

その嫡男義綱は、常陸水戸藩に仕官し、その嫡男隆綱より代々家老職を務め、その名乗りの領地はふたたび得ることはできなかったが、宇都宮氏嫡流の血脈は受け継がれた。


■宇都宮国綱(うつのみやくにつな)ゆかりの地

墓所 ・地蔵院-栃木県芳賀郡益子町


point-10沼田景義(ぬまたかげよし)

戦国武将:沼田景義(ぬまたかげよし)沼田景義 天文21年-天正9年(1552-1581):群馬県

沼田景義(ぬまたかげよし)は、上野沼田氏当主顕泰の庶子で戦国武将。沼田氏は、平安時代末には沼田周辺(現群馬県)を領していた。

小田原の北条氏は、再三に渡り沼田へ侵攻しようとしたが、その対応をめぐって、景義が10歳に満たない頃、上杉氏を頼り北条氏を迎え撃とうとする父顕泰と、北条氏に帰属しようとする伯父朝憲が対立していた。

18歳のとき、沼田氏の内紛に破れ、父顕泰とともに沼田城を落ちた。

沼田城氏の家督は、北条方の沼田氏一門の康元が継いだが、上杉氏は沼田城を攻め、康元は城を落ちた。父顕泰は、上杉氏の意向を受け、沼田氏の家督を再び継いだが、その名乗りの城である沼田城は、上杉氏による城代支配となってしまった。

27歳のとき、上杉謙信の死を受けて上杉氏が混乱すると、それに乗じて旧領への復帰を目指し、沼田へ出兵する。しかし、景義と同じく沼田を狙う真田真幸が、沼田氏旧臣で景義の母方の伯父(祖父ともいわれる)である金子泰清に景義暗殺を示唆しており、景義は沼田城に迎えられたが、金子らに城内で殺害されてしまった。享年30歳。これにより沼田氏は断絶した。

景義は、若い頃から大変な戦上手で、その神通力のような戦姿は武士の信仰を集める摩利支天の再来といわれたという。


■沼田景義(ぬまたかげよし)ゆかりの地

墓所 ・小沢城址(法城院境内)-群馬県沼田市


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