解説石田三成(いしだみつなり)

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戦国武将:石田三成(いしだみつなり)石田三成 永禄3年-慶長5年(1560-1600):滋賀県

石田三成(いしだみつなり)は、近江国坂田郡(現滋賀県長浜市)の戦国大名で、佐和山城主(現滋賀県彦根市)。石田氏は、坂田郡石田村に土着した地侍の家系と考えられている。

豊臣秀吉が近江長浜城主となった頃(15歳くらい)から秀吉の小姓として仕えはじめた。23歳のとき、織田信長が本能寺の変で倒れ、秀吉が次代の天下人として台頭してくると、三成もその側近としてその名を知られるようになる。柴田勝家を滅ぼした賤ヶ岳の戦いでは、敵軍の様子を伺う偵察行動を担当し、また一番槍の功があった。

秀吉が関白に就任した後、名将の誉れ高い島左近を自身の知行を半分与え召抱えたという。27歳のときである。

39歳のとき、秀吉が死去すると、徳川家康の台頭を懸念した三成は、上杉景勝・直江兼継らと家康打倒の挙兵計画を図った。これは関ヶ原の戦いに発展したが、西軍となった三成側は、総体的に戦意の低い軍が多かったことや、小早川秀秋などの翻意によって総崩れとなり、三成は家康の命によって京都六条河原にて斬首された。享年41歳。

三成は、武をもって立身するという戦国武将のイメージからは少し異なるかもしれない。関ヶ原の戦いの敗因のひとつに、三成の武将としての求心力が欠けていたことが挙げられることもあるが、三成は優秀な武将であったが、それ以上に優れた行政官僚であり、秀吉の天下統一に三成の存在は不可欠であったことは評価されるべきである。


■石田三成(いしだみつなり)ゆかりの地

墓所 ・大徳寺三玄院-京都府京都市
肖像画 ・大徳寺三玄院蔵-京都府京都市
銅像 ・石田会館(生誕地)-滋賀県長浜市
・長浜駅前-滋賀県長浜市
写真 ・(頭蓋骨より復元された顔の写真)-石田会館(生誕地)-滋賀県長浜市

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