解説今川 義元(いまがわ よしもと)

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戦国武将:今川 義元(いまがわ よしもと)今川義元 永正16年-永禄3年(1519-1560):静岡県

今川義元(いまがわよしもと)は、駿河国(現静岡県中東北部)を治めた駿河守護今川氏第9代当主、守護大名のちに戦国大名。今川氏は、足利氏の傍流吉良氏の分家であるが、室町幕府将軍家が断絶した場合、その地位を継承できるとされる、室町幕府内では由緒正しい家柄だった。義元の母は、権大納言中御門宣胤の娘で、朝廷との繋がりも深かった。

義元は五男であったため、4歳で仏門に出され、京都の臨済宗の寺で学んでいた。しかし、18歳のとき、家督を継いでいた長兄氏輝が亡くなったため、正室の子ということもあり、還俗して家督を継ぐことになった。

19歳のとき、隣国甲斐(現山梨県)の守護武田信虎の娘(信玄の同母姉)を正室に迎え、駿河・甲斐の両国の結束を固めた。この姻戚関係に相模(現神奈川県)の北条氏や尾張(現愛知県西部)の織田氏は警戒を深めた。一方、三河(現愛知県東部)の松平氏からは恭順を受け、嫡男竹千代(後の徳川家康)を人質に迎え、三河守護を兼任した。続いて尾張侵攻を進めたが、桶狭間の戦いで、織田信長に敗れた。享年42歳。

義元の死後、嫡男氏真は、徳川家康に高家として仕え、500石の知行を得た。しかし、明治維新とともに、その知行を失って没落し、跡取りの無かったことも加え、断絶した。

一般的に義元は、白塗りで公家かぶれ姿の戦国大名に似つかわしくない暗愚な武将のイメージがあると思う。桶狭間の戦いで、2万5千もの軍を率いながら、10分の1ばかりの信長に討たれたことが、そのイメージに拍車をかけている。しかし、馬に乗らず輿で移動するなどのいささかコミカルに描かれる公家風の姿は、当時の社会では教養と地位の高さを示すものであり、義元はその示威効果を最大限に利用していたのである。領国経営や軍備にも辣腕ぶりを発揮しており、義元は決して暗愚な武将ではなかったはずである。義元が破れたことはともかく、今川氏は衰退した原因は、積極的に過ぎる領国拡大による疲弊が理由であろう。


■今川 義元(いまがわ よしもと)ゆかりの地

墓所 ・桶狭間古戦場伝説地-愛知県豊明市
・天澤廃寺(首塚)-静岡県静岡市
・大聖寺(胴塚)-愛知県豊川市
・高徳院-愛知県豊明市
・臨済寺今川廟(天澤寺より首塚も移転)-静岡県静岡市
・観泉寺-東京都杉並区
肖像画 ・大聖寺蔵-愛知県豊川市
木像 ・臨済寺蔵-静岡県静岡市
銅像 (織田信長と並ぶ)
・桶狭間古戦場公園-愛知県名古屋市

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