ポイント解説甲信越・北陸地方

point-1前田利家(まえだとしいえ)

戦国武将:前田利家(まえだとしいえ)前田利家 天文7年-慶長4年(1539-1599):石川県

前田利家(まえだとしいえ)は、加賀国(現石川県)の戦国大名。加賀藩主前田氏の祖。
尾張国荒子城主(現愛知県名古屋市)利昌の四男として生まれた。前田氏は、菅原道真の後裔を名乗っているが、その出自は不明である。利家の家系は、荒子を領有した父利昌以前は詳しくわかっていない。

13歳のとき、織田信長に小姓として仕える。短気で喧嘩っ早く、派手な格好が好きないわゆるかぶき者で、武勇にも長けていた。特に槍の名人で「槍の又左」と呼ばれていた(元服名の前田又左衛門利家から)。また、信長と衆道関係にあったことは有名である。

21歳のとき、その生来の喧嘩っ早さから、茶坊主拾阿弥を惨殺して、出仕停止処分となり、浪人暮らしをした。その間、桶狭間の戦いに無断で参戦し、首級を三つ挙げたが、帰参は赦されなかった。23歳のとき、再び無断で森部の戦いに参戦し、「頚取足立」の異名を持つ足立六兵衛の首級を挙げ、ようやく信長に帰参を赦された。利家の浪人中に父利昌は死去し、前田家の家督は長兄利久が継いでいたが、31歳のとき、突然、信長より家督を継ぐように命ぜられる。利久には実子が無く、また病弱であったためであるという。

36歳のときには柴田勝家の指揮の下、越前一向一揆鎮圧に従軍し、戦功を挙げた。そして、42歳のとき、能登七尾城主(現石川県七尾市)となり、能登23万石の大名となった。信長の死後、勝家と豊臣秀吉の間で後継者争いがおこり、両者の間でその立場に苦しんだものの、結局、利家は秀吉についた。

隠居した後、秀吉から五大老のひとりに命ぜられ、嫡子秀頼の将来を託された。秀吉の死後、徳川家康らは秀吉の遺言を無視する行動があり、利家はこれに反発したが、自身の病状も悪化し、豊臣家の将来を案じながら没した。享年61歳。秀吉の死の翌年であった。

信長の衆道相手を務めていたことからも知られるように、その容姿は、美貌に加え、残された着物から背丈6尺(およそ182cm)の大変見栄えの良い武将であったと言われている。喧嘩っ早く、槍の名手であった一方、機を見て敏な世渡り上手な面もあった。

その後の前田家は、加賀国100万石を領し、明治維新には侯爵に列せられた。


■前田利家(まえだとしいえ)ゆかりの地

墓所 ・野田山墓地前田家墓所-石川県金沢市
・宝円寺-石川県金沢市
肖像画 ・桃雲寺蔵-石川県金沢市
・総持寺蔵-神奈川県横浜市
・個人蔵
銅像 ・尾山神社-石川県金沢市
神社 ・尾山神社(祭神名:前田利家公)-石川県金沢市


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point-2佐々成政(さっさなりまさ)

戦国武将:津佐々成政(さっさなりまさ)佐々成政 天文5年-天正16年(1536-1588):富山県

佐々成政(さっさなりまさ)は、越中国(現富山県)の戦国大名。佐々氏は尾張国春日井郡(現愛知県春日井市)比良城を領有した土豪。相次いで兄たちが早世したため、15歳で家督を継いだ。

織田信長に仕え、馬廻から、32歳のときに織田軍精鋭部隊の黒母衣衆の一員に選ばれた。その後、戦功を重ね、40歳のときには、柴田勝家配下で越中を治めることになった。さらに46歳のときには越中半国を正式に与えられ、富山城(現富山県富山市)を大規模に改修し、入城した。

信長の死後、柴田勝家と豊臣秀吉の間で実権争いが起こると、勝家側についた。勝家の失脚後、秀吉に恭順すると見せかけ、徳川家康・織田信雄側につき、秀吉側についた前田利家、さらに敵対していた越後の上杉景勝の間で板ばさみになった。秀吉と家康の間に和議が成立すると、進退が窮まり、家康に再び秀吉に対して挙兵を促すため、極寒の飛騨山脈を越えた。「さらさら越え」である。しかし、命がけの説得も適わず、とうとう秀吉に富山城を包囲され、降伏した。50歳のときである。その後、越中のほぼ全域を没収され、妻子と共に大坂に移され、以後は御伽衆として秀吉に仕え、ほぼ隠居同然の扱いとなった。

52歳のとき、肥後一国(現熊本県)を与えられたが、性急な改革に反発した肥後国人に蜂起され、納めることができず、切腹させられた。享年53歳。

早世した長男に男子が無く、直系の子孫は絶えた。実姉の子孫は水戸徳川家に仕え、その曾孫にあたる佐々宗淳(さっさむねきよ)は、水戸光圀に仕え、『水戸黄門』の「助さん」こと、佐々木助三郎のモデルとされている。


■佐々成政(さっさなりまさ)ゆかりの地

墓所 法園寺-兵庫県尼崎市
肖像画 富山県富山市郷土博物館蔵
銅浮彫画 常願寺川佐々成政橋-富山県上新川郡大山町


point-3朝倉義景(あさくらよしかげ)

戦国武将:朝倉義景(あさくらよしかげ)朝倉義景 天文2年-天正元年(1533-1573):福井県

朝倉義景(あさくらよしかげ)は、越前国(現福井県)の戦国大名。越前朝倉氏第11代当主。朝倉氏は、古くから越前に土着した豪族で、父孝景の代に、室町幕府より越前国守護に取り立てられた。

16歳のとき、父孝景が死去したため、家督を相続した。はじめ延景(のぶかげ)と名乗るが、20歳のとき、室町幕府第13代将軍足利義輝より「義」の字を与えられ、義景と改名した。23歳のとき、将軍義輝が暗殺され、後に15代将軍となる義輝の弟義昭を迎え保護したが、上洛に消極的であったため、義昭は織田信長を頼って去ってしまった。

義景は、政務や統治に興味が無かったのか、遊興の日を送った。そのような状況のなか、室町幕府の復権を目指す義昭と信長の関係が悪化し、義昭は、義景に信長討伐の御内書を送った。信長・徳川家康連合軍に攻められた義景は、信長と姻戚関係にあった浅井長政の協力のもと、信長軍と対峙することになる。信長軍の猛攻を受けた義景は、その居城一乗谷城(現福井県福井市)を逃れたが、親族の裏切りにあい自害して果てた。享年41歳。

その子孫の行方ははっきりとはわかっておらず、少なくとも越前に栄えた義景の家系は絶えた。


■朝倉義景(あさくらよしかげ)ゆかりの地

墓所 ・一乗寺(義景公園)-福井県大野市
肖像画 ・心月寺蔵-福井県三方上中郡若狭町


point-4武田信玄(たけだ しんげん)・武田 晴信

戦国武将:武田信玄(たけだ しんげん)武田信玄 大永元年-元亀4年(1521-1573):山梨県

武田信玄(たけだしんげん)は、甲斐国(現山梨県)を治めた甲斐国守護武田氏第19代当主、戦国大名。本名は晴信(はるのぶ)。信玄は法名である。第18代当主武田信虎の嫡男として生まれた。武田氏は、清和源氏の一流で、12世紀には甲斐に土着した名族である。尊崇を込めて「甲斐の虎」、「甲斐の龍」と称される。

信玄が生まれた頃、父信虎は、鎌倉公方や関東管領の混乱に巻き込まれて失墜していた甲斐守護の地位を復権し、甲斐国内統一を果していた。15歳で元服。晴信と名乗る。

21歳のとき、側近らと父信虎を甲斐から追い、家督を相続した。父の愛情が弟信繁にあり、廃嫡の恐れがあったから、とも言われている。その後、信虎は今川義元や足利義昭のもとに身を寄せ、信玄もその生活料を送金していたという。最後は、三男信廉の高遠城のもとで81歳の天寿を全うした。

家督を継いだ信玄は、隣国の信濃へ侵攻し、33歳のときに、ついに信濃のほぼ全域を平定するに至った。信玄によって信濃を追われた豪族たちの要請により出兵した上杉謙信(長尾景虎)との間に、以降、五度に渡る川中島の戦いが行なわれた。一方、尾張の織田信長の養女と嫡子勝頼と姻戚関係を結んだが、室町幕府第15代将軍足利義昭から信長追討の命を受け、敵対関係になった。また、駿河・遠江・三河地方へも侵攻した。徳川家康に死を覚悟させた三方ヶ原の戦いは、このときのものである。その帰路、街道上で死去した。享年53歳。父信虎よりも1年早い死であった。「自身の死を三年隠せ」、勝頼に「謙信を頼れ」などと遺言したという。

軍旗に「疾如風徐如林侵掠如火不動如山」と孫子の言葉を記したことはあまりにも有名である。また、「武田二十四将」に代表されるように、親族や家臣団の層が厚く、団結力が強かった。武田氏の武士団としての長い歴史のためもあるだろうが、やはり信玄の人柄によるところが大きいだろう。「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり。」の名言、甲斐国内の信玄の居城躑躅ヶ崎館には堀一重の平城だったことからもうかがえる。その地は現在、武田信玄を祭神とする「武田神社」となって、旧主を偲んでいる。


■武田信玄(たけだ しんげん)ゆかりの地

墓所 ・恵林寺-山梨県甲府市
・信玄公御墓所-山梨県甲府市
・福田寺-愛知県北設楽郡設楽町
・龍雲寺-長野県佐久市
・妙心寺玉鳳院-京都府京都市
・高野山奥の院-和歌山県伊都郡高野町
・諏訪湖(水中墓伝説)-長野県諏訪市周辺
肖像画 ・高野山持明寺蔵-和歌山県伊都郡高野町
・高野山成慶院蔵-和歌山県伊都郡高野町
銅像 ・甲府駅前-山梨県甲府市
・塩山駅前-山梨県甲州市
・(馬上より上杉謙信が迫る姿)
川中島古戦場跡(八幡原史跡公園)-長野県長野市
神社 武田神社(躑躅ヶ崎館跡)-山梨県甲府市
祭神名:武田信玄公


point-5真田 信繁 (さなだ のぶしげ)

戦国武将:真田 信繁 (さなだ のぶしげ)真田信繁 永禄10年-慶長20年(1567-1615):長野県

真田信繁(さなだのぶしげ)は、信濃国(現長野県)の戦国武将である。「幸村(ゆきむら)」の通称で有名だが、直筆の書状や当時の史料には「幸村」の名が使われているものは存在しない。

「幸村」の呼称は、「信繁」の死後50年以上経って書かれた軍記物語『難波戦記』に登場したものである。さらに、江戸時代から大正時代に流行した「真田十勇士」の講談や小説の人気も合わせて一般的になったと考えられる。

真田氏は、信濃国小県郡(現長野県上田市の大部分)を治めていた滋野氏嫡流海野氏の傍流とされる、地方豪族である。信繁の祖父にあたる幸隆が小県郡の真田郷を領有した後、真田氏を名乗ったと思われる。武田信玄の信濃侵攻に伴い、武田氏に仕えるようになった。織田信長によって、武田氏が滅ぼされると、信長に恭順し、その所領を安堵された。

関ヶ原の戦いでは、父真幸とともに西軍につき、東軍についた長兄である信之とは敵対することになった。鎧を赤で統一しており、「真田の赤備え」と称された。大坂の役、特に状況の悪化していた夏の陣での奮戦は有名である。この戦いは、徳川家康が自軍に「三日分の兵糧を持って参陣せよ」と言ったと伝えられるほど、勝敗は初めから決していたといっても過言ではないのだが、このような状況下で、信繁は、およそ3500勢で、家康本陣へ突撃し、その馬印を倒すまでに至った。家康は、その攻撃のすさまじさに、三方ヶ原の戦い以来の自害を覚悟した、と伝えられている。結局、兵力の差から徳川軍にじりじりと追われ、撤退を余儀なくされた。四天王寺近くの安居神社(現大阪市天王寺区)境内で、傷兵の看病をしていたところを襲撃され、首を討たれた。享年49歳。

信繁の血統は、次男守信が、伊達家重臣片倉重長の室となっていた姉阿梅の縁で匿われ、仙台藩士となり、現在も仙台真田家として、伝わっている。


■真田 信繁 (さなだ のぶしげ)ゆかりの地

墓所 ・長国寺-長野県長野市
・竜安寺塔頭大珠院-京都府京都市
・田村家墓所-宮城県白石市
・一心院-秋田県大館市
肖像画 ・長野県上田市立博物館蔵
銅像 ・安居神社(最期の地)-大阪府大阪市


point-6上杉謙信(うえすぎけんしん)

戦国武将:上杉謙信(うえすぎけんしん)上杉謙信 享禄3年-天正6年(1530-1578):新潟県

上杉謙信(うえすぎけんしん)は、越後国(現新潟県)を治めた戦国大名。越後守護代長尾氏出身。本名は景虎(かげとら)→政虎(まさとら)→輝虎(てるとら)。謙信は出家後の法号である。俗に「越後の虎」、「越後の龍」と尊崇を込めて称される。

謙信が生まれた頃の越後地方は、氏族内闘争や下剋上が横行し、混乱していた。父為景の隠居を受けて家督を継いだ兄晴景のもとで元服をした謙信は、14歳にして一城を任され、内乱を制圧していった。

病弱であり、争いに対して穏健な態度で臨む晴景ではなく、若いながら武将として才を見せる謙信を当主としようとする動きが活発になり、謙信は19歳で家督を継ぎ、越後守護代となった。さらに越後国内の不満分子を一掃し、22歳にして越後一国の統一を成し遂げた。

越後を安定させた謙信は、武田信玄(晴信)の信濃侵攻で窮地に立った武将たちの要請を受けて、信玄との戦いに赴く。計5回に及ぶ川中島の戦いである。
その間、長尾氏の主筋にあたる上杉氏の家督相続と関東管領職に就任し、名前を上杉政虎と改めた。謙信、32歳のときである。なお、長尾氏の方は、家督を譲渡せず断絶した。

49歳で死去するまで、謙信は戦いの日を過ごした。その旗印に「毘」の字を使うなど、武神毘沙門天を篤く信仰し、生涯不犯の戒(妻帯禁制)を守ったため、婚姻・実子の存在は知られていない。若いときの悲恋が原因だとか、男色家であったとか、果ては謙信女性説も根強いが、真相は不明である。遺品などから身長は156cmほどであったと思われ、当時の男子の平均身長である159cmよりも小柄であったようである。

謙信に対する評価は当時から高く、特に野戦においては統率力に長けた戦術家とみなされており、対戦相手は野戦を恐れ、時に不利となるにも関わらず篭城策を取ったという。

謙信の養子となった甥(姉の息子)にあたる上杉景勝が家督を相続した。その子孫は出羽米沢藩主(現山形県)として、明治にいたり伯爵に列せられた。


■上杉謙信(うえすぎけんしん)ゆかりの地

墓所 ・林泉寺-新潟県上越市
・上杉家廟所謙信霊廟-山形県米沢市
・高野山清浄心院-和歌山県伊都郡高野町
肖像画 ・林泉寺宝物館蔵-新潟県上越市
・上杉神社蔵-山形県米沢市
銅像 ・春日山城址-新潟県上越市
・米沢城址-山形県米沢市
・(馬上で武田信玄に迫る姿)川中島古戦場跡(八幡原史跡公園)-長野県長野市
・栃尾城址-新潟県栃尾市
※他多数あり
神社 上杉神社(祭神名:上杉謙信公)-山形県米沢市


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