解説伊達政宗(だてまさむね)

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戦国武将:伊達政宗(だてまさむね)伊達政宗 永禄10年-寛永13年(1567-1636):宮城県

伊達政宗(だてまさむね)は、陸奥仙台藩の初代藩主。伊達氏の名乗りは、陸奥国伊達郡(現福島県)に由来し、古来より、「いだて」・「いだち」と呼ばれていた。政宗自身も書簡に「Idate Masamune」と署名しており、本来は「いだて」氏と名乗っていたと思われる。畿内で「だて」とも読まれ、江戸時代を通じても2つの読みが混用されていた。

18歳のとき、41歳の壮年であった父輝宗から、その資質を高く評価され、家督を譲られた。しかし、その翌年、政宗は、和議に訪れた二本松(畠山)義継の謀略で、父輝宗を結果的に殺害することになってしまう。5分の1以下の軍勢で父の敵をとった後、さらに領土拡大に努め、陸奥の雄として、その存在を示すことになる。

関ヶ原の戦いでは、徳川家康の東軍方につき、現在の宮城県全域と岩手県・福島県・茨城県・滋賀県を含めた仙台藩62万石を安堵され、70歳で亡くなった。その後、伊達氏は明治に至り、伯爵に列せられた。

通り名の「独眼竜」は、幼少時に天然痘で右目を失明して隻眼であったことから、その武勇と人物に敬意を表して呼ばれるようになったものである。政宗自身は、「父母よりもらった眼を失い申し訳ない」と、隻眼を好まず、自身の像を作るときは両眼を入れるように遺言したという。また、派手好みの秀吉に気に入られるように、豪華絢爛な戦装束を着し、京都の民衆も歓声をあげたという。これが派手・豪華、または格好の良さを表わす「伊達者(だてもの)」の語源となった。

政宗に天下取りの野望があったかは諸説あるが、遣欧使節を送り、支倉常長をローマ教皇に謁見させたこと、三代将軍家光の就任に一役買い、家光からも尊敬されていたことなど、その独自の世界観は異彩を放っていたと思われる。


■伊達政宗(だてまさむね)ゆかりの地

墓所 ・瑞鳳殿-宮城県仙台市
肖像画 ・宮城県仙台市博物館所蔵
銅像 ・青葉山公園(青葉城址)
・岩出山城址-宮城県大崎市
神社 ・青葉神社(祭神名:武振彦命(伊達政宗の神号))-宮城県仙台市

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