ポイント解説中国地方

point-1毛利輝元(もうりてるもと)

戦国武将:毛利輝元(もうりてるもと)毛利輝元 天文22年-寛永2年(1553-1625):山口県

毛利輝元(もうりてるもと)は、安芸国(現広島県)出身の戦国大名で、江戸幕府の大名。長州藩(現山口県)藩祖。毛利氏は、鎌倉幕府草創の名臣である大江広元の四男季光を祖とする一族である。戦国時代には、安芸国に土着して国人領主として勢力を拡大した。

輝元は、毛利元就の嫡男、隆元の嫡男として生まれた。11歳のとき、父隆元が急逝したので家督を継いだが、若年のため祖父元就が実権を握っていた。19歳のとき、祖父元就が死去すると、叔父である吉川元春・小早川隆景(毛利両川体制)と、重臣たちの補佐を受け、毛利氏当主として活動を始める。

24歳のとき、織田信長によって都を追われた足利義昭が領内に落ち延びてきたため、保護せざるを得なくなった。また、石山本願寺が挙兵すると、本願寺に物資の援助をしたため、信長と対立するようになる。はじめは優勢だった毛利軍だが、28歳のとき、豊臣秀吉を大将とした信長軍の中国侵攻が激化すると、毛利氏は徐々に不利になっていく。

信長の死後、覇権争いをしていた柴田勝家、秀吉両陣営から味方になるように働きかけられたが、中立の立場をとった。勝家が敗れると、秀吉に接近し、武功を挙げ、周防・長門・安芸・石見・出雲・備後(現山口県・島根県・広島県・岡山県の大部分)など120万5千石の所領を安堵され、秀吉の晩年には五大老に列せられた。

秀吉の死後、徳川家康に次ぐ所領と実力を持つ輝元は、石田三成らに西軍の総大将として担ぎ出された。輝元は、一門や重臣に相談することなくその要請を受けたという。48歳のときである。一旦、大坂城へ入った輝元だが、出陣はせず、家康に申し出て退城した。西軍が敗れることを見越していた吉川広家(輝元の叔父元春の三男)は、密かに家康側と通じ、毛利軍は戦闘に参加する意思のないこと伝えた。しかし、輝元は戦闘に関わる書状を多数発しており、家康は、輝元を改易して広家に毛利氏の家督を継がせようとした。広家の奔走により輝元は改易を免れ、周防・長門2国(現山口県)37万石に減封されるに留まった。その後、嫡男秀就に家督を譲り、享年73歳で死去した。毛利氏は、長州藩主(周防国と長門国を併せて領する)として家名を保ち、明治維新後は公爵に列せられた。


■毛利輝元(もうりてるもと)ゆかりの地

墓所 ・天樹院-山口県萩市
肖像画 ・毛利博物館蔵-山口県防府市
銅像 ・萩城址-山口県萩市
神社 ・志都岐山神社-山口県萩市
祭神名:毛利輝元公


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point-2毛利元就(もうりもとなり)

戦国武将:毛利元就(もうりもとなり)毛利元就 明応6年-元亀2年(1497-1571):広島県

毛利元就(もうりもとなり)は、安芸国(現広島県)の戦国大名。毛利氏は、鎌倉幕府の名臣大江広元の四男季光を祖とする。戦国時代には、安芸国に土着して国人領主として勢力を拡大しつつあった。

元就は、毛利弘元の次男として誕生した。父弘元は、嫡男興元に家督を譲ると、幼い元就をともない多治比猿掛城(現広島県安芸高田市)に隠居した。5歳のときに母を10歳のときに父を相次いで失った元就は、家臣の裏切りに遭い、多治比猿掛城を追われた。その困窮した境遇を「乞食若殿」と揶揄されるなか、継母の杉大方に養育された。

20歳のとき、兄興元が急死したため、家督を幼少の嫡男が継ぎ、元就が後見した。幼い主君に代わり戦場に出た元就は、抜群の活躍を見せ、毛利家中の信望を集めていった。27歳のとき、主君が9歳で夭折すると、重臣たちの推挙で元就が家督を継いだ。毛利氏ははじめ尼子氏に仕えていたが、当主経久が、元就の家督就任に難色を示したことから両者の関係が悪化したため、元就は、尼子氏と勢力を二分していた大内氏に主君を替えた。

大内義隆に従軍して、尼子氏を攻めるなか、有力な大内氏傘下で水軍も擁する小早川家に、12歳の三男隆景を養子に出す。さらに、正室の実家で、大内氏から尼子氏に寝返った吉川氏を乗っ取る形で18歳の次男元春を養子に送り込んだ(毛利両川体制)。

こうして毛利氏は、吉川氏・小早川氏両家の勢力を得、安芸一国の支配権を手にした。義隆が家臣の陶晴賢に討たれると、元就は晴賢を討ち、また尼子氏を滅ぼすと、嫡男隆元に家督を譲って隠居した。享年75歳。

「三本の矢」の逸話が有名である。これは、元就が61歳で隠居する際に、3人の息子たちに宛てた文書「三子教訓状」(山口県防府市の毛利博物館蔵。重要文化財)が伝承されて発展したもののようである。この文書のなかで、「毛利の名を末代まで廃れさせるな」「3人の間柄に少しでも分け隔てがあってはならない。そのときは3人とも滅亡すると思え」などと14条に渡って元就の思うところが書かれている。毛利氏の未来を託すに足る3人の人並み優れた息子に恵まれたことは、元就の幸せであったかも知れない。


■毛利元就(もうりもとなり)ゆかりの地

墓所 ・大通院-広島県安芸高田市
肖像画 ・豊栄神社蔵-山口県山口市
銅像 (元就と幼い三子の像)・萩市民館-山口県萩市
・萩城址-山口県萩市
・吉田郡山城址-広島県安芸高田市
神社 ・豊栄神社-山口県山口市
祭神名:毛利元就公

 

point-3小早川秀秋(こばやかわひであき)

戦国武将:小早川秀秋(こばやかわひであき)小早川秀秋 天正10年-慶長7年(1582-1602):岡山県

小早川秀秋(こばやかわひであき)は、戦国武将で備前国岡山城主(現岡山県岡山市)。豊臣秀吉の正室高台院(ねね)の兄である木下家定の五男として誕生した。4歳のとき、義叔父である秀吉の養子となった後、13歳のときに、秀吉の命で、嗣子の無かった小早川隆景の養子となった。隆景は弟秀包を養子としていたが、廃嫡され、別家を興すことになった。この頃の小早川氏は、隆景が毛利元就の三男であったため、同じく二男である吉川元春と毛利両川として毛利氏を支える中国地方の雄であった。

関ヶ原の戦いでは西軍についたが、東軍に寝返ったことにより、西軍の大敗を決定づけた。その後、備前・美作両国(現岡山県東部)を領する岡山藩55万石に加増転封された。この岡山藩は、秀秋の裏切りに激昂した宇喜多秀家の領していた藩である。その後、藩内の整備に力を注いだが、関ヶ原の戦いからわずかに2年後、病死した。享年21歳。秀秋の死後、継嗣がなかったため、小早川氏は改易された。

関ヶ原の戦いでの行動により、小早川秀秋は、裏切り者の代名詞のようになっている。その早逝も、秀秋の裏切りにより小早川軍に攻められ自害に追い込まれた大谷吉継の呪い(もしくはそう思い込んだ秀秋の心労)によるもの、との説もある。

秀秋の行動だが、開戦当初から秀秋は西軍を離反することを決めていたという。東軍の黒田長政(黒田如水の長男)と浅野幸長の連名で「北政所(高台院)様のために動いている」という内容の書状が現存していることから、高台院の甥にあたる秀秋には選択肢が無かったのかも知れない。ただ裏切り行動というものは、後味の悪いもので、それが秀秋の評価に影を落としていることは否めない。


■ゆかりの地

墓所 ・瑞雲寺-岡山県岡山市
肖像画 ・高台寺蔵-京都府京都市


point-4宇喜多秀家(うきたひでいえ)

戦国武将:宇喜多秀家(うきたひでいえ)宇喜多秀家 元亀3年-明暦元年(1572-1655):岡山県

宇喜多秀家(うきたひでいえ)は、備前国(現岡山県東南部)の戦国武将で岡山城主(現岡山県岡山市)。宇喜多氏は、古代より備前国に土着していた在地領主である。

秀家は、宇喜多直家の次男として誕生したが、11歳のとき、父直家の死により、織田信長に本領を安堵され家督を継いだ。宇喜多軍は、当時中国征討に進撃していた豊臣秀吉軍に組み込まれたが、幼い秀家に代わり、叔父忠家が軍を率いていた。本能寺の変が起こり、秀吉が急ぎ帰京するために毛利元就と和睦を結んだため、宇喜多氏は備中東部・備前・美作(現岡山県のほぼ東半分)を領する大名となった。

秀吉に愛されて猶子となり、元服の際には「秀」の字を与えられて秀家と名乗った。また、15歳のときに、秀吉の鍾愛の養女豪姫(前田利家四女)を正室に迎え、秀吉の一門衆として遇されることになった。

秀吉の死後、秀家にとっては舅でもある前田利家も没すると、石田三成は毛利輝元を盟主に担ぎ出して、関ヶ原の戦いを起こした。秀家は西軍の副大将として、徳川家康を討つべしとの檄文を飛ばし、伏見城攻撃では総大将となるなど、西軍の主戦力となった。しかし、小早川秀秋の裏切りで西軍は総崩れとなってしまい、宇喜多軍も壊滅的な打撃を受けた。小早川軍の裏切りを聞いた秀家は、「小早川軍の陣中に乗り込んで秀秋を叩き切ってやる」と激昂したと言われるが、義弟の明石全登に諌められた。29歳のときである。

秀家は改易された後も逃走を続け、薩摩国(現鹿児島県)の島津氏を頼った。しかし、秀家を匿っているとの噂を恐れた島津氏は、秀家を家康の元へ送った。その後、豪姫の兄で、加賀藩主であった前田利長の助命嘆願などもあり、死罪を免ぜられ、駿河国久能山(現静岡県静岡市)に幽閉された後、35歳のときに、2人の息子とともに八丈島へ流刑された。八丈島で49年を過ごし、83歳の長命を保ち死去した。

妻の豪姫は関ヶ原の後、2人の娘を連れて実家である前田氏に身を寄せ、八丈島にいる夫秀秋と2人の息子である秀高・秀継のもとへ援助を続けた。宇喜多氏は、八丈島で2人の息子たちの血脈を伝えた。


■宇喜多秀家(うきたひでいえ)ゆかりの地

墓所 ・稲葉墓地-八丈島:東京都八丈町
・東光寺-東京都板橋区
肖像画 ・岡山城址-岡山県岡山市
石像 ・(妻豪姫と並ぶ)
八丈島-東京都八丈町


point-5尼子義久(あまごよしひさ)

戦国武将:尼子義久(あまごよしひさ)尼子義久 天文9年-慶長15年(1540-1610):島根県

尼子義久(あまごよしひさ)は、出雲地方(現島根県)を領した戦国大名で月山富田城主(現島根県安来市)。尼子氏は、宇多源氏である京極氏の分家で、出雲守護だった京極氏の関係で出雲へ下り守護代となり、出雲地方に勢力を伸ばした一族である。

尼子晴久の嫡男として誕生した。22歳のとき、父晴久が急死したため、家督を継いだ。この頃、尼子氏は毛利氏と石見大森銀山(現島根県大田市)の覇権を巡って争いが続いていた。先代晴久死去の動揺を収束しきれないところへ毛利氏に攻められ、次々と城が落ちるなか、主城月山富田城も包囲された。兵糧を断たれ、城内が混乱状態となったため、義久は開城を決意し、大名としての尼子氏は滅亡した。27歳のときである。

その後、義久は毛利氏の客分として居館を与えられ、後に出家した。享年71歳。大名としての尼子氏が滅亡した後も尼子氏再興を図る動きがあった。尼子勝久を擁した尼子氏の家臣である山中幸盛(鹿介)、立原久綱らは、毛利氏を抑えたい織田信長の目論見もあって、幾たびか再興の夢に懸ける。しかし、戦力に劣り、勝久は26歳で自害、幸盛も34歳で殺され、久綱は83歳の長寿を保ったが、悲願は適わなかった。

なお、義久の直系の子孫は毛利氏に仕えた。尼子氏の家名は、義久の大叔父の家系が続いている。


■尼子義久(あまごよしひさ)ゆかりの地

墓所 ・大覚寺-山口県阿武郡阿武町
銅像 (尼子氏再興に奮戦した山中鹿介像)
・月山富田城址-島根県安来市
神社 ・尼子神社-兵庫県赤穂市
祭神名:尼子義久公

 

point-6吉川経家(きっかわつねいえ)

戦国武将:吉川経家(きっかわつねいえ)吉川経家 天文16年-天正9年(1547-1581):鳥取県

吉川経家(きっかわつねいえ)は、中国地方の名族吉川氏の傍流である石見吉川氏出身の戦国武将。吉川経安の嫡男として生まれ、毛利氏に仕えた。

経家の名を著名にしたのは、織田信長の命による豊臣秀吉中国討伐軍との攻防である。因幡国(現鳥取県)まで侵攻した秀吉軍に恐れをなした山名豊国が鳥取城(現鳥取県鳥取市)で降伏しようとすると、豊国を追い出して、徹底抗戦を目論む家臣たちは吉川元春に支援を求めた。元春は武勇に秀でた経家に入城を命じた。このとき、経家は死を自身の首桶を持ち込んだといい、死を覚悟した入城だった。

経家は入城すると、城内の防衛を整備し、籠城の準備をはじめた。しかし、兵糧の備えは常備兵3ヶ月分しかなく、経家を驚かせた。これは秀吉の作戦で、事前に因幡国内の米を高値で買い取らせていたのである。秀吉は鳥取城を囲んだが、動かず、城内への物資運搬の道だけを断った。鳥取城は4ヶ月間も籠城したが、餓死者が出始めたことで、ついに経家は、城兵の助命を条件として降伏し、開城した。

秀吉は、経家の入城の経緯を知っていることもあり、その武勇を惜しみ、自害を思いとどまらせようと説得したが、経家は頑なに聞き入れず、業を煮やした秀吉は信長に経家の自害許可を確認した。享年35歳。

経家は自害の前に、父や4人の子等へ宛てて遺書を送った(現在も山口県岩国市の吉川史料館に伝わっている)。「君が名を仇に為さじと思ふゆえ末の世までと残し置くかな」「古の仮の庵と住みかへてもとの都にかへりこそすれ」の辞世を残した。


■吉川経家(きっかわつねいえ)ゆかりの地

墓所 ・円護寺-鳥取県鳥取市
銅像 ・鳥取城址-鳥取県鳥取市


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