解説有馬晴信(ありまはるのぶ)

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戦国武将:有馬晴信(ありまはるのぶ)有馬晴信 永禄10年-慶長17年(1567-1612):長崎県

有馬晴信(ありまはるのぶ)は、肥前国(現佐賀県と長崎県の一部)の戦国武将で、肥前国日野江城主(現長崎県南島原市)。有馬氏は、出自は不明だが、15世紀に有馬晴純が出て、島原半島一帯を中心に勢力を広げた一族。

有馬義貞の次男として生まれたが、4歳のときに兄義純が早逝したため、家督を継いだ。この頃、有馬氏は、龍造寺隆信の圧力を受けていたが、18歳のときに、島津義久と連合して龍造寺氏を滅ぼす(沖田畷の戦い)と勢力を伸ばした。その後、21歳のときに豊臣秀吉が九州に侵攻してくると、島津氏から離れ、豊臣軍下に加わった。

当初、キリシタンを迫害していた晴信だったが、14歳のときに洗礼を受けたとの説がある。洗礼名をドン・プロタジオ(後にドン・ジョアンと改名したという)。その後、熱心なクリスチャンとなり、16歳のときには、天正遣欧少年使節で、従弟の千々石ミゲルを送った。その後、秀吉の朝鮮出兵では、同じキリシタン大名の小西行長軍に属し、7年間を朝鮮半島で過ごした(文禄・慶長の役)。

秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは在国のまま西軍についたが、戦況不利とみると東軍へ寝返り、所領を安堵された。その後、晴信の朱印船に事件があり、その解決によって徳川家康から、今は鍋島氏が領する有馬氏の旧領を安堵されるかも知れない、と持ちかけられた。これが家康に知られ、口利き料を受け取った岡本大八は火あぶり、晴信は贈賄の罪で甲斐国初鹿野(現山梨県甲州市)に追放され、死罪となった。享年46歳。

晴信の罪とは無関係とされた嫡子直純はお咎め無しで、晴信の所領を継いで肥前国日野江(島原)藩主(現長崎県島原市)となった。その後、日向国延岡藩(現宮崎県宮崎市)、越後国糸魚川藩(現新潟県糸魚川市)、越前国丸岡藩(現福井県坂井市)と転封しつつ明治維新を迎え、子爵に列せられた。


■有馬晴信(ありまはるのぶ)ゆかりの地

墓所 ・諦居跡-山梨県甲州市
銅像 (晴信従弟の千々石ミゲル)
・森園公園-長崎県大村市

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