解説荒木村重(あらきむらしげ)

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戦国武将:荒木村重(あらきむらしげ)荒木村重 天文4年-天正14年(1535-1586):兵庫県

荒木村重(あらきむらしげ)は、戦国大名で摂津国伊丹城主(現兵庫県伊丹市)。荒木氏は、平安時代中期の武将藤原秀郷の後裔を称する。摂津国池田城主(現大阪府池田市)である摂津池田氏に仕える家系だった。

はじめ池田氏に仕え、一族から妻を娶った村重だったが、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と同調し、池田氏を掌握した。その後、織田信長に目を懸けられ、39歳で摂津国茨木城主(現大阪府茨木市)、翌年40歳のときには摂津一国を任され、伊丹城(有岡城)主となった。

44歳のとき、突如、信長に対して決起した。一度は明智光秀などの糾問の使者に説得され、釈明のために信長の居城である安土城(現滋賀県近江八幡市)へ向ったが、家臣の中川清秀に懸念を示され、伊丹へ戻った。豊臣秀吉も使者を派遣し、再び翻意を促したが、聞かず、有岡城に篭城して、1年間抗戦した。翌年45歳のとき、村重は単身で有岡城を脱出して尼崎城(現兵庫県尼崎市)へ、さらに花隈城(現兵庫県神戸市)へ移り、毛利氏に亡命した。同年、落城した際に有岡城に残された女房衆122人が尼崎で惨殺され、京都に護送された村重一族と重臣家族36人は市中を引き回され六条河原で斬首された。信長は難を避けていた領民を発見すると殺害し、村重を追い詰めていった。村重の重臣を匿ったとして高野山金剛峰寺(現和歌山県伊都郡)の僧数百人をも虐殺した。

しかし、信長自身が本能寺の変で倒れると、村重は堺(現大阪府堺市)に戻り、豊臣秀吉のもとで茶人として生きた。享年52歳。

信長に重用された村重がなぜ謀反に至ったのか、また一族郎党を見捨てて、なぜ単身逃亡したのか、その行動には謎が多いが、これも人間の性のひとつなのかも知れない。


■荒木村重(あらきむらしげ)ゆかりの地

墓所 ・南宗寺-大阪府堺市
・荒村寺-兵庫県伊丹市
肖像画 ・大阪府伊丹市立博物館蔵

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