解説尼子義久(あまごよしひさ)

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戦国武将:尼子義久(あまごよしひさ)尼子義久 天文9年-慶長15年(1540-1610):島根県

尼子義久(あまごよしひさ)は、出雲地方(現島根県)を領した戦国大名で月山富田城主(現島根県安来市)。尼子氏は、宇多源氏である京極氏の分家で、出雲守護だった京極氏の関係で出雲へ下り守護代となり、出雲地方に勢力を伸ばした一族である。

尼子晴久の嫡男として誕生した。22歳のとき、父晴久が急死したため、家督を継いだ。この頃、尼子氏は毛利氏と石見大森銀山(現島根県大田市)の覇権を巡って争いが続いていた。先代晴久死去の動揺を収束しきれないところへ毛利氏に攻められ、次々と城が落ちるなか、主城月山富田城も包囲された。兵糧を断たれ、城内が混乱状態となったため、義久は開城を決意し、大名としての尼子氏は滅亡した。27歳のときである。

その後、義久は毛利氏の客分として居館を与えられ、後に出家した。享年71歳。大名としての尼子氏が滅亡した後も尼子氏再興を図る動きがあった。尼子勝久を擁した尼子氏の家臣である山中幸盛(鹿介)、立原久綱らは、毛利氏を抑えたい織田信長の目論見もあって、幾たびか再興の夢に懸ける。しかし、戦力に劣り、勝久は26歳で自害、幸盛も34歳で殺され、久綱は83歳の長寿を保ったが、悲願は適わなかった。

なお、義久の直系の子孫は毛利氏に仕えた。尼子氏の家名は、義久の大叔父の家系が続いている。


■尼子義久(あまごよしひさ)ゆかりの地

墓所 ・大覚寺-山口県阿武郡阿武町
銅像 (尼子氏再興に奮戦した山中鹿介像)
・月山富田城址-島根県安来市
神社 ・尼子神社-兵庫県赤穂市
祭神名:尼子義久公

 
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