解説明智光秀(あけちみつひで)

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戦国武将:明智光秀(あけちみつひで)明智光秀 享禄元年?-天正10年(1528?-1582):滋賀県

明智光秀(あけちみつひで)は、戦国大名で近江国坂本城主(現滋賀県大津市)。明智氏は、清和源氏土岐氏の支流。

前半生の経歴が不明で、生年にも諸説ある。通説では、美濃で斎藤道三に仕えていた。19歳のとき、道三と息子義龍の争いで道三側に付き、義龍に攻められ一族離散したという。また、室町幕府第13代将軍義輝に仕えていた、という説もある。

確実に光秀の動向がわかるのは40歳頃からで、豊臣秀吉とともに織田信長下で京都で政務にあたっていた。第15代将軍義昭に仕えていたが、信長と不仲になると、信長の直臣となった。44歳のとき、近江に5万石を与えられ、坂本城を築城した。

55歳のとき、本能寺(現京都府京都市)に滞在していた信長を襲い倒した。三成は即座に京都を押さえたが、恭順する武将に恵まれず、豊臣秀吉に討たれた。享年55歳。

主君である信長を討ったとして、本能寺の変を起こしたことで、光秀の評価は当時から悪い。一方、原因が明らかでないことが多く、光秀の心情に興味を持たれていることも確かである。「心しらぬ人は 何とも言わば言え 身をも惜しまじ 名をも惜しまじ」との辞世を残している。その行動の理由は本人にしかわからない。しかし、この辞世に何か想像を掻き立てられるのも興味深い。


■明智光秀(あけちみつひで)ゆかりの地

墓所 ・谷性寺(首塚)-京都府亀岡市
・西教寺-滋賀県大津市
・高野山奥の院-和歌山県伊都郡高野町
・首塚-京都府京都市
・明智藪(胴塚)-京都府京都市
・明智神社-福井県福井市
肖像画 ・本徳寺-大阪府岸和田市
石像 ・坂本城址-滋賀県大津市
神社 ・明智神社(祭神名:明智光秀公)-福井県福井市
・御霊神社(祭神名:明智光秀公)-京都府福知山市

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